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石原慎太郎の国政進出に「憂国の情」を見た(上杉 隆)

相変わらず見事なタイミングだった。

きのう(10月25日)、石原慎太郎都知事は知事辞任を表明、国政復帰と新党結成を宣言した。

確かに、15:00から都庁で開かれた緊急記者会見は80歳とは思えない力強さに満ちていた。

ただ、その姿をMXテレビの画面で見て私が最初に感じたことは、「大変だな、石原さんも」というのが率直なところだった。

今任期中の電撃的な辞任はすでに知っていた。

昨年の3.11の震災直後、予定外の知事選不出馬を取り消した時に話した時も、同じ3月、自由報道協会で記者会見をした際も、またその夜、赤坂の料理屋で二人で食事をした時にも、石原さんは電撃辞任をほとんど断言していたからだ。

問題は時期だった。今回、石原さんは一週間前に辞表を書いたという。だが、決意は4選決定の際、いや、本当は2回目のオリンピック東京招致立候補を決めた後、心に決めていたのだ。

3年前、2009年のデンマークでのIOC総会直後、私はコペンハーゲン空港の特別室で石原さんと話していた。

「おい。もっと優しくしてくれよ」

こう言いながら、石原さんはあの独特の人懐っこい笑顔を見せた。

直前のIOC総会の記者会見(日本以外の国際会議ではフリーランスも会見に普通に参加できる)で、私が辞任を迫る質問をしたことに対する返答だった。

それは5年前の2007年、3選当選を決めた直後の記者会見冒頭、私が次のように質問したことに遡る。

「知事は今回、オリンピック招致を公約に掲げて立候補しましたが、それに失敗した際はどうするのですか?」

それに対して、石原さんが答えたのは「そりゃ、男らしく責任は取りますよ」というものだった。

既得権益を手放さない世代を 毛嫌いしてきた石原氏

石原語を翻訳するのには長年の経験を必要とする。

多くのメディアが陥りがちな、彼の表層的な言葉尻だけを捉えてしまうと完全に本質を見失ってしまう。それはある意味、文学的でもあり、政治的でもあり、なによりいつも通りに、硬直した日本社会への挑戦的な価値紊乱のビーンボールでもあるのだ。

石原さんがコペンハーゲンの空港でその後に続けて発したのは次のような言葉だった。

「おい、上杉君。責任を取るっていうのは辞めることだけではなくて、やり続けることもまたそうなんだよ。なんで老兵の俺がやらなきゃならないんだよ。だいたい君たちの世代がやればいいんだよ。本当にしっかりしてくれよ。日本ももっと老人をいたわってくれよ」

日本の不甲斐なさ。とくに団塊世代の意思決定の弱さに対して、石原さんはずっとイラつきを隠してこなかった。

1995年、国会議員だった石原さんは永年勤続25年の本会議スピーチの最中、突如、議員辞職を表明した。その際、野次の中で述べたワンフレーズがいまだに私の頭に残っている。

「日本は去勢された宦官のような国家に成り果てた――」

それは石原さんなりの警句であった。

その直後に出版した『国家なる幻影』では、その心中を、中央官僚システムの打破という具体的なアプローチとして明示しているし、またその4年後の1999年には、「東京から日本を変える」として都知事選に出馬、外形標準課税(銀行税)、ディーゼル車規制、都債券市場構想など矢継ぎ早に新政策を打ち出し、自らその活動の旗手として、政治の舞台に返り咲いたのだ。

中央官僚という具体的な言葉を使いながらも、石原さんが指摘していたのは新しい日本人たちへの決起を促すことに他ならなかったのではないか。

現在の硬直した日本の中央官僚システムは、同じく停滞したその経済システム(とくに会計方式など)とメディアシステム(記者クラブシステム)と相まって、日本を衰退させる最大の根源だと石原さんは言い続けてきた。

よって、そのシステムを既得権益化することで、自己利益ばかりを追求してきた団塊、およびその前後の世代を、石原さんは毛嫌いしてきた。

それぞれに「国家革命」を 希求した文壇の2大スター

拙著「石原慎太郎『5人の参謀』」(小学館)を世に出してからもう10年以上が経つ。

あの当時から石原さんの語っていることは少しも変わっていない。

尖閣問題も、憲法破棄も、中央官僚システム、記者クラブシステムへの批判も――。

なにより不甲斐ない世代へ決起を促し続ける姿勢も変わっていない。

きのうの石原知事辞任会見の最中、一緒にいた出口晴三元東京都議会議員はぽつりと私にこう語った。

「石原さん、三島由紀夫のあの市ヶ谷での最期の演説みたいな思い詰めている雰囲気になっているな。三島とは、時代も型も違うけど、ターゲットは同じ国家官僚、『憂国の情』だね」

憂国の情――。なるほど、同じく「国家革命」を希求した二人だが、かたや文学と武力、片や文学と政治の道に分かれて進んだ当時のスター。膨大な石原さんの過去の著作を漁っても、不思議なことに三島への記述は少ない。

それは石原さんと話していても気づく。おそらく、当時の文壇の2大スターだった二人は常に比較され続けてきたのだろう。

「川端(康成)さんは見ちゃたんだよ。三島さんの(断首された)頭を。でも、僕は(上の階に上がらず)見なかったんだよね。それが生き方の違いに繋がったかね」

いつの頃だったか、石原さんに三島由紀夫の話を振った時、珍しくこう答えたのだった。

江藤淳に「無意識過剰」と評された石原慎太郎――。

今年「憂国忌」は42年目を迎える。80歳の石原さんは、無意識のうちに、当時距離を置いたあの三島由紀夫の「憂国の情」に重なっているのかもしれない。

昨日の緊急辞任会見を観ながら、私はそう観想したのであった。

【ダイヤモンドオンライン「週刊上杉隆」10月26日より】