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尖閣問題の収拾には野田総理の交代しかない!?(大貫 康雄)

尖閣諸島問題は野田政権の国有化決定後、中国が強硬になった。

領土問題は直近、直接の原因と経緯とは別に、歴史的経緯を踏まえ原点に戻る努力をしないと感情的に走り、予想もしない結果を招くことがある。

日中国交回復時(1972年)の「棚上げ合意」は現状維持、日本による尖閣諸島の実効支配を条件付きで認め、両国の経済関係を促進した。

一方で、両国が率直かつ真摯な歴史検証と議論を行わずにきたため、人々に混乱と誤解を呼び起こしている。

このため両国貿易量が増え、中国の経済力・軍事力の飛躍的な増大に伴い海洋権益を巡る日中間が対立し、不信感を呼んで緊張を高めている。事態の収束、正常化には双方の努力と相当の年月が欠かせない。

対立の陰で忘れられがちだが、尖閣諸島は終戦の直前直後に沖縄の多くの人たちが米軍の空襲にあい遭難する悲劇がおきた場であり、また戦前には中国漁船が遭難し日本側が救出した場でもある。

 

中国からの感謝状には「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島」と記されている

 

Ⅰ)終戦時の悲劇は地元で「台湾疎開石垣町民遭難事件」、「一心丸:友福丸事件」などと呼ばれている(尖閣列島戦時遭難事件)。

沖縄の人たちの地道な調査で1970年代から徐々に実態が明らかにされたが、どれだけの人が犠牲になったか未だ正確な記録はない。沖縄県や沖縄県教育委員会の文献が公開されている。

沖縄(特に本島)から九州や台湾に疎開船が何度も出され、そのうち子どもたちを載せたいわゆる「学童疎開船・対馬丸」の悲劇は知る人も多い。

沖縄での大規模戦闘(沖縄戦)が終わった一週間後の1945年6月30日、石垣島から尖閣海域経由で台湾の基隆港に向け、200人(180人とも200人以上とも諸説ある)を乗せた疎開船「友福丸」(軍の呼称:第一千早丸)と「一心丸」(軍の呼称:第5千早丸)が港を出る。

エンジン故障などで西表島に立ち寄ったりして、7月3日午後、基隆港に入る数時間前にアメリカ軍の空襲を受ける。この攻撃で一心丸が炎上・沈没、友福丸も航行不能になるなどして、数十人(正確な死亡者数は不明)が亡くなった。

友福丸はなんとか修理して7月4日の午前中、魚釣島に到着し、乗船者は島で自活を始める。しかし船で積んできた食料は直ぐに底を突く。食べられるものと言えば雑草や自生しているビロウの木の柔らかい部分、磯で捕まえる小魚くらいで、衰弱死する人が相次ぐ。

8月初め救助を求めるべく、大工さんたちが難破船の木片などで小舟を作り、アメリカ軍の空襲や荒波を乗り越え8月14日夜、石垣島に辿りつく。島の日本軍部隊からの連絡で16日、食料を積んだ飛行機が尖閣列島の魚釣島に飛び食料を投下する。生存者が救出され石垣島に戻ったのは終戦直後の8月19日のことだった。

尖閣列島付近では、1920年にも日本側の実効支配を示す遭難事故が起きている。遭難したのは(時の中華民国)の漁民で、地元石垣村の漁民の人たちが31人を救出する

この救助活動に対し中華民国政府(駐長崎領事馮冕)が1920年5月20日付で感謝状を、当時の沖縄県石垣村(現在の石垣市)第2代村長「豊川善佐」宛てに贈っている。

感謝状には公印が押され「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島」で中国人遭難者を救助したと記されている。領事は政府代表であり、この文書では中国側が尖閣列島は日本領であることを認めている

この感謝状は2010年11月27日に発見されている。石垣市議会はこれらの公文書を元に「1月14日を尖閣諸島開拓の日」とする条例を2010年12月17日に可決している。

「1月14日」は1895年1月14日、日本(明治)政府が尖閣諸島を日本領に編入する閣議決定をした日にちなむ。

 

10年かけて調査し、明治政府は尖閣諸島を日本領に編入する閣議決定をした

 

Ⅱ)日本が近代国家の装いを整えた明治以降の日中関係を概観すると、中国(台湾も)は1971年までは尖閣領有権を主張していない

中国が革命を経て近代国家・中華民国成立後も主張はしていない。

しかし、日中の研究者たちによると、実効支配したかは別にしても、16世紀、明朝政府は中国沿岸を荒らしまわった倭寇対策強化の一環として、編纂した海図で魚釣島などを海の防衛区域内に入れている。

清朝末期の1893年西大后は軍臣に魚釣島を下賜する詔書を出している。

自国領であることを当然視していたものと解釈できる。

中国(及び台湾)が国際社会に向けて尖閣諸島についての領有権の主張を強めたのは、国連の調査で周辺海域に原油やガスなどが埋蔵されている可能性が明かになった後である。

それまで何故強く主張しなかったのかは明らかにしていない。

中国は今、日本は日清戦争に乗じて尖閣諸島を奪ったとか、日本は密かに領有を実現し、国際社会に領有化を宣言しなかったとも主張している(日清戦争は1894年7月25日から1895年11月30日にかけて戦われた)。

多くの人が知るように、日清戦争勃発の9年前の1885年、九州在住の古賀辰四朗という実業家が、尖閣諸島の貸与願いを明治政府に申請する。日本政府は直ぐに判断せず、どこかの国が領有していないか、人が住んでいないかなども含め環境調査を何度か調査を重ねている(明治政府の慎重姿勢には諸外国、中でも清朝の態度を見極める必要があったことが当時の資料から想像できる)。

その最中に起きた日清戦争は1895年年4月17日、日清講和条約(馬関条約、下関条約)を締結して終わる。講和交渉はその前年の1894年11月22日、戦闘を継続しながら清国が申し入れる。

1895年2月1日に広島での最初の講和会議が手続きの不備で頓挫。3月19日に清国全権代表・李鴻章が下関に到着して本格的な講和会議(第二次講和会議)が始まるが、双方の主張が対立したまま動かない。

3月24日に李鴻章が暴漢に狙撃される事件が起き、日本側は欧米世論が清国に同情的になるのを懸念。要求条件を緩めた結果、交渉が進展し3月30日に休戦条約に調印、4月17日、講和条約に調印する。

明治政府が尖閣諸島を日本領に編入する閣議決定をしたのは、この講和会議が始まる直前の1895年1月14日のこと。明治政府が日清戦争を意識した可能性を否定できない。

ただ、講和会議で台湾や澎湖島の引き渡しでは議論になったが、何故か「尖閣」の名前自体は出てこない。

背景として考えられるのは、日清戦争前に沖縄領有権に関して日本との間で論争になっていたことだ(もちろん、両国政府も地元沖縄の人たちの意向を考慮した上でのことではなく、沖縄の人たちからすれば、互いに身勝手な主張だった)。

清国側からすれば尖閣は台湾の付属諸島と考えるか、琉球列島(沖縄本島等)の付属諸島と考えるかのいずれかだったのではないか。西大后の下賜がある以上、話になれば当然、講和会議で領有権を主張したと考えられるからだ

 

台湾は教科書の地図に「尖閣諸島」は日本領にあると判る領有線を台湾島との間に引いている

 

*)最近、日本メディアのワシントン駐在特派員の取材で、戦後の中国側の態度が判る資料が明らかにされた。

アメリカ政府機関が保管する資料の中に“中華人民共和国が尖閣諸島を日本領であると認める”とも解釈できる資料の存在だ。

一つは、文化大革命の1966年、中国が江衛兵向けに制作した地図で「尖閣諸島は中国国外、琉球列島」の島、と記していること。

もう一つは、1967年に中国政府が発行した国民向けの地図で、これにも「尖閣諸島は琉球列島」に含まれる、と記していることだ(これらの地図はインターネットでも見ることができる)。

さらにそれ以前、中国共産党中央委員会の機関紙「人民日報」(1953年1月8日付)「琉球群島人民による反米闘争」との記事で、米軍占領地域の琉球群島の範囲を尖閣諸島、先島諸島、沖縄諸島、大東諸島、大隅諸島など7つの島しょからなっていると紹介し、尖閣諸島が琉球群島(沖縄県と鹿児島県の一部)に含まれることを報じている

一方、沖縄協会の調べでは、台湾は1970年の教科書の地図で「尖閣諸島」は日本領にあると判る領有線を台湾島との間に引いている。台湾当局発行の台湾の地図が描かれた切手にも尖閣の表示は無い。

台湾当局が領有権の主張を始めた1971年になると「釣魚台列島」と名前を変えた上で、尖閣諸島との間にあった境界線を与那国島の北で止めて境界線(領有権の所在)をあいまいにしている。

いずれにしても尖閣諸島周辺海域に豊富な天然資源が存在する可能性が出てきてから中国、台湾双方も領有権の主張を強めている。

ただ台湾は、尖閣周辺はかつて台湾漁民が漁業をしていた海域であることを踏まえ、台湾漁民の漁業権を以前と同じように回復することに主眼がある。

 

野田政権は、政府内で国有化がいかなる事態を招くかなど、どんな協議をしたのかなど明らかにしていない

 

Ⅲ)自分の領土だと主張する国が現れ、国際社会に広報宣伝活動を始めた以上、日本政府は「領土問題は存在しない」、とだけ言っていては済まされない。アメリカはじめ各国も領土問題があることは否定できないとの立場だ。

国際社会では絶えず説明をしていかないと、多くの国は事実を正確に把握せず、誤解に基づく判断をしてしまう恐れがある。

野田政権による国有化決定後、中国はすでにアメリカの有力紙に意見広告を載せ、また中国や台湾の学者たちが研究と称した投稿をしてアメリカ国民への広報活動を始めている。

中国政府は10月に入ると友好国パキスタンの新聞にも同じような広告を載せている。

また夫人が中国系アメリカ人ジャーナリストで、NYタイムズの元北京、東京支局長だったコラムニストのニコラス・クリストフ氏などは、台湾の学者の主張を元に、中国側に同情する、などというコラムを書いている。

日本人が、いかに一方的だと思っても、残念ながら日本総領事の反論は抽象的で国際社会向けには説得力がない。詳しく明確に説明した方が良い。

日中国交回復40周年の今年、尖閣諸島を巡る両国関係が突然悪化した経緯は御存じのとおりだ。

中国嫌いで知られる石原都知事がアメリカ保守派のシンクタンクで講演し、尖閣購入案を言い出したことに始まる。

東京都が尖閣諸島所有者の経済困難を利用する形で、島に冷凍倉庫を作ることまで交渉していたことを、所有者が外国特派員協会で記者会見し明らかにしている(アメリカ政府は基本的に石原都知事を危険な右翼政治家、とみている。それはアメリカのメディアの報道でも判る)。

元々、国家主義思考が強い野田総理は都知事の発言に刺激されたようだ。しかし国有化をどう進めるか、国有化がいかなる事態を招くかなど、政府内でどんな人間が如何なる協議をしたのか、明らかにされていない。

外交問題になった案件を国民に説明することなく、突然のように国有化を閣議決定した。一国の総理としては考えが狭く、判断が甘く軽すぎる。

中国はフィリピンとの領海対立で野田政権がフィリピンに肩入れして以来、野田総理に急激に不信感を強めている。“野田総理は石原都知事を利用する形で国有化をした”とみて怒りを強めている。こうした中国側の見る目を考えられなかったのだろうか。

 

野田総理が胡主席のメンツをつぶしたために事態は悪化した

 

中国に対する野田総理の最悪の失態はウラジオストクで開催されたAPECでの15分間に象徴される。日本側の要請に応じて最高指導者の胡錦涛国家主席が敢えて15分間の立ち話に応じ、その場で尖閣国有化に自重を求めた

しかし野田総理は、その僅か2日後に尖閣国有化を閣議決定した。

中国は国力は増大しても市民社会が未成熟、日本以上に人権尊重の意識が希薄で、民主主義の理解度は低い。指導者のメンツを最も重視する国だ。

中国人に野田総理は、中国の最高指導者直接の要請をいとも簡単に無視した、と映る。

親日派で中国政府の対日外交を指導してきた唐家■(■は王偏に旋)(Tang Jiazuan)中日友好協会会長・元外相は、“最高指導者があからさまにメンツを潰されたことが、中国の憤激の一番の原因だ”と日本側訪問団に語っている。

野田総理が胡・国家主席の要請を真摯に考慮し中国側との意見交換の努力を続けていれば、現在の状態は回避できた可能性が大きい。

尖閣諸島領有権の現状維持(新しいことをしない、刺激しない)での「棚上げ合意」は実効支配している日本側に有利な内容で、建国の指導者(毛沢東、周恩来)が左派強硬派の反対を抑えて実現した。

カリスマ性がある建国の指導者が認めた合意である以上、幾ら国力が増大しても左派や軍部強硬派は一定の線を越えて手荒なマネは出来なかった。

それが野田総理の「尖閣国有化」は現状維持の合意を破るものだと、中国の強硬派に格好の付け入る機会を与えた。尖閣周辺海域での中国漁業監視船の数が一挙に増え、“領海内に公然と出入り”するようになった。各地で起きた反日暴動の背後に中国政府機関が関与しているのは映像などでも確認されている。

野田総理の愚行が、建国の指導者の残した重しを中国強硬派のために外してやったようなものだ。

しかも時期は10年に一度の最高指導部の交代時期。内部での権力闘争の最中とみられる時期。ここまで日本の総理に馬鹿にされたのでは、両国関係維持を重視する胡・国家主席一派の立つ瀬も危うくなる。

野田総理の愚行を利用して、中国の強硬派が一挙に形勢を変えようとしている。信頼回復の道は険しく、経済面での打撃も決して軽くは無い。問題の収束と関係改善には相当年月がかかると覚悟するしかない。

軍備増強に走る限り解決はできない。この状況を一転させるために総理交代を急ぎ、全て原点に戻るなど、信頼回復への意思を明確に打ち出すきっかけを、出来るだけ早く作るしかない。

そのためには日中双方が率直かつ真摯な対話ができる人脈づくりを地道に進める必要がある、と同時に日本政府は各国が判り易く具体的な歴史的事実を明記し、原点を踏まえた広報活動を国際社会で展開するべきである。

また古くから尖閣海域での漁業で生計を立ててきた台湾漁民には資源保護を図りながら、台湾が日本領時代のような漁業権を認める、などの対応をする智恵があっても良い。

相手国が活発に主張して行く以上、抽象的で通り一遍の主張を繰り返すだけでは国際社会の理解は得られない。問題を回避せず、真摯な対話を続けて智恵を出し合う努力を欠かしてはならない。

【NLオリジナル】