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大相撲は現代スポーツにはなりえない!?(玉木 正之)

この原稿は、昨年(2011年)の朝日新聞5月15日付書評欄『ニュースの本棚』に書いたものです。テーマは「相撲の本」。

当時、「八百長問題」でメディアが侃々諤々喧々囂々大騒ぎしたあと、東日本大震災で一時期騒動は下火となり、五月場所が「技量審査場所」となって再び「八百長問題」の話題が沸騰した折に、相撲に関する好著の紹介とともに、書いたものです。

また、それに続いての「大相撲は現代スポーツたりえない!?」というコラムは、同年の毎日新聞4月23日付朝刊スポーツ面の連載コラム『時評・点描』に書いたものです。

秋場所が佳境を迎え、日馬富士の横綱昇進への挑戦が騒がれ、「八百長問題」や「弟子への暴行」「賭博」「大麻所持」等々の不祥事も、財団法人相撲協会の「改革」も、すっかり忘れ去られた今日ですが、そもそも相撲とは……? という疑問を再確認する意味で、、News-Logの文化欄(!!)に紹介します。御一読下さい。

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日本の美しい文化「大相撲」は、はたしてスポーツか?

新弟子死亡事件や大麻所持事件、横綱の暴行引退事件や野球賭博、そして携帯メール八百長事件……。不祥事続きの角界は信頼を回復できるのか?

高橋秀実『おすもうさん』(草思社)は筆者自らまわしを締めて土俵に上がり、力士や行司のナマの証言を集め、肌で感じた「呑気でゆるやかな相撲の世界」を描いた秀逸なノンフィクション。

明治時代には「待った」を54回繰り返し、仕切に1時間37分かけたこともある。明治42年に国技館ができたときも「八百長」が横行。「呑気者同士ゆえの八百長。呑気こそ相撲の伝統」と看破する。

しかし、そんな大相撲が、やがて日中戦争から太平洋戦争の時代へと進むなかで、「裸一貫褌一丁で相手に挑む。大日本帝国が敢行すべき『肉弾戦』」として「国技報国」に利用される。

そして敗戦後は、エスニックな魅力の行司や力士が進駐軍米兵の人気の的となり、柔道や剣道、銃剣術や薙刀がGHQによって禁止されるなか、相撲は興行を再開。戦後の「スポーツ」として復活する。

相撲の「正史」ともいうべき新田一郎『相撲の歴史』(講談社学術文庫)にも、「この融通無碍、これこそが相撲であった」と述べられている。

中島隆信『大相撲の経済学』(ちくま文庫)では、「八百長は本当に悪か」と問題が提起され、「真剣勝負が増えることで(略)観客の目を楽しませる」なら「八百長を極力減らすようなしくみを考え」るべきだが「相撲のパフォーマンス向上にそれほど効果があるわけでな」いなら「部外者が(略)目くじら立てて非難する必要もない」と書く。

相撲は、「呑気」に「融通無碍」に考えるべきものなのだ。

風見明『相撲、国技となる』(大修館書店)によれば、明治の大相撲の「近代化」は「力士の芸人根性の象徴」だった観客の「投げ花(投げ祝儀)」や「桟敷での力士の接待」の禁止、「人情相撲(八百長)」の排除から始まった。

そのような近代日本が否定した前近代の相撲は、江戸風俗研究家の三田村鳶魚の話をまとめた三田村鳶魚・柴田宵曲『侠客と角力』(ちくま学芸文庫)に詳しく、江戸期には相撲(や侠客)の世界が「アジール(聖域・避難所)」として機能したことがわかる。

そして「晴天十日の小屋掛け興行」が、明治の常設館(国技館)での興行となったことを「意気とか情味とかいふものを余所にして、財布ばかり大事がる」として、江戸っ子は「折角出来上がった国技館を、しみったれと罵った」という。

しかし、時代は変わる。メディアが「八百長は許せない」と非難し、監視カメラの設置や携帯電話の持ち込み禁止で「大相撲のスポーツ化」が推進される。

それを見て、世知辛い世の中…と思うのは私だけだろうか?

そんなときは、飯嶋和一の名作『雷電本紀』(小学館文庫)に描かれた雷電の豪快無双の活躍を読んで溜飲を下げるのがいい。

天明の大火で焼け野原となった江戸の町で、母親たちが次々と差し出す赤ん坊を抱きあげ、「厄払い」に励む雷電は、抑圧された民衆たちの閉塞感の象徴ともいえる「拵え相撲」(八百長)を「鉄砲(張り手と突っ張り)」でぶち壊す。

小説とはいえ、相撲が「スポーツ化」することなく「美しい日本文化」であった姿を味わえる。

いや、『映像で見る国技大相撲』(ベースボールマガジン社/全20巻)のDVDを見れば、「八百長」と指摘され、騒がれた最近の大相撲も、実は素晴らしい名勝負の連続だったとわかるはずだが……。

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大相撲は現代スポーツたりえない!?

先日(2011年4月18日)行われたボストン・マラソンの優勝タイムは2時間3分2秒! いまに2時間を切るのでは…と思えるほどの大記録だった。

が、これは世界記録に認定されないという。

04年に定められた道路競走の記録公認ルールに「直線コースは総距離の半分以下」「スタートとゴールの標高差は総距離の1000分の1以下」とあり、下り坂の多い直線的片道コースのボストン・マラソンは、(心臓破りの丘=Heart-break-hillと呼ばれる難所が1箇所あるとはいえ)どちらの「記録公認ルール」にも失格。

厳格なルールによる公平性の保証こそ近代(現代)スポーツの基本なのだろう。が、現代のスポーツも、つい最近まで、もっと豊かな「遊び心」に富んでいたようにも思う。

1975年にボストン・マラソンを走った和太鼓奏者の林英哲さんは、ゴールのテープを切った直後に、用意しておいた大きな和太鼓を叩きまくって観衆を仰天させた。当時ボストン交響楽団の常任指揮者だった小沢征爾さんがそれを見て、「素晴らしい!」と絶賛し、英哲さんの和太鼓とボストン交響楽団の共演も実現した。

また、1930年代のアメリカ・メジャーリーグも、今日のベースボールとはかなり異なり、大ホームラン・バッターのベーブ・ルースが打席に立つと、相手ベンチのボールボーイが、プレゼントの小箱を手にして駆け寄ったりもした。

そのプレゼントをもらったルースが箱を開けると、バネ仕掛けのカエルが中から跳びだして全員大笑い……。それからおもむろに、審判が「プレイボール!」をコールしたという。

そのヤンキース監督として1950年代に黄金時代を築いた名将ケーシー・ステンゲルが、60年代にメッツの監督になったときも、彼が三塁のコーチャーズボックスに立つときは、帽子を取って挨拶するたびに頭のテッペンから鳩を飛び出させ、ファンを喜ばせたという。

大相撲の場合は、さらに「大胆」で、明治42年に国技館が完成するまでは、観客が勝った力士に祝儀を渡そうとして羽織や帽子を土俵に投げ込む「投げ花(投げ祝儀)」が盛んだった。

力士や呼び出しがそれらの品物を拾って持ち主に返すと、御祝儀と交換してもらえ、力士は現金を手にすることができたという。また贔屓筋の客が見に来ると、関取は桟敷席まで挨拶に行き、土俵の出番までのあいだ、お酌をして日頃の後援の礼をするのが常だった(礼儀だった)という。

もちろん、それらの「前近代的余興」は、現代の相撲では完全に影を潜め、大相撲は通算勝利記録や通算出場場所数、連勝記録や三役在位場所数などの「記録(数字)」が騒がれるようになった(スポーツ化した?)。

しかし、マラソンランナーの太鼓打ちや、野球の監督の鳩の手品や、大相撲の「投げ花」は消えても、大相撲から土俵入りや弓取式、初っ切りや相撲甚句……まで消えるとなると、それは大相撲ではなくなってしまう。

まさか、そういう事態になることは、大相撲ファンの誰も許さないだろう……ということは、大相撲は本質的に「現代スポーツ」にはなり得ないもの、といえるだろう。だから「八百長」も大目に…とまでは言わないが、「情け相撲」くらいは当然存在するもので、あってもいいのではないか……いや、あって当たり前と思うのは私だけだろうか?

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大相撲や、大相撲にまつわる「八百長相撲」「人情相撲」などに関する小生の考えは、『「大相撲八百長批判」を嗤う〜幼稚な正義が伝統を破壊する』(飛鳥新社・2011年6月刊)にまとめました。ロンドン五輪前にNHK-BSの特番に出演したとき、大相撲にメチャメチャ詳しいデーモン小暮閣下から、小生の「大相撲八百長事件」に関する意見が「いちばん正しい」とのお言葉もいただきました。興味ある方は御一読ください。

【NLオリジナル】