歴史を塗り替えた「舞鶴空襲」被害者の証言(藤本 順一)
67回目の終戦記念日である。戦争犠牲者への鎮魂と平和を願う1日にしたいものだ。とはいえ著者も含め戦後生まれの日本人が8割を占めるに至り、言葉では平和の大切さを理解できてはいても、戦争そのものについては追体験するより他に方法はない。とりわけ、戦争体験者の証言は貴重である。
――終戦2週間後にひかえながら舞鶴は、米軍の二度の空襲に見舞われた。その爆撃の下では、近畿一円から集められた徴用工員、女子挺身隊、学業を放棄して兵器生産にいそしむ学生・生徒たちがいた。犠牲になって命を失った者、過酷な生活のもとで、戦後ながく療養を余儀なくされたもの・・・。いま、ようやく長い沈黙をやぶって後世に「平和」を説く貴重な最後の証言に耳をかたむけよう――
今年7月に出版された「舞鶴空襲」(つむぎ出版)の帯を飾った一文である。
京都府舞鶴市は日本海に面した人口9万人足らずの小都市だが、戦前は軍港として賑わった。終戦直後は満州、朝鮮、シベリア抑留者の引き揚げ船を受け入れ、二葉百合子が「岸壁の母」の歌った舞台でもある。
空襲の被害状況については「舞鶴市史」が7月29日死者97名、重軽傷者百数十名、同月30日死者83名、負傷者247名としている。空襲の規模や犠牲者の数でいえば東京大空襲には及びもしないが、空襲を受けた側一人一人の背負った痛みと恐怖は同じである。
「終戦時に資料の多くが焼却され、箝口令がしかれていたため被害の実態は過小評価されてしまったが、今回多くの方の証言で真実を掘り起こすことができました」
同書の編纂呼びかけ人代表の蒲田忠夫さんは本欄の取材にこう語る。
たとえば「舞鶴市史」では投下された爆弾は500キロ爆弾一個とあるが、実は1万ポンド(4536キロ)の原爆模擬弾だったことが同書によって明かされている。戦争経験者の突きつけた新たな事実が歴史を塗り替えた瞬間だ。戦争知らない世代に平和を実感させてくれる一冊である。
【東京スポーツ「永田町ワイドショー」8月15日より】
【訂正とお詫び】当初、原稿冒頭部分に「76回目の終戦記念日」と書かれていましたが「67回目」の間違いでした。訂正してお詫びいたします(編集部)