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北朝鮮にいまも眠る多数の日本人遺骨(辺 真一)

先週、愛知県で500人近くの教員らを前に「人権感覚豊かな社会実現を目指して」をテーマに語ったが、最たる人権侵害である拉致問題の解決の必要性を説いたのは言うまでもなく、最後は「日朝間には拉致問題のほかにもう一つの人道的な懸案がある」と述べて締めくくった。

そのもう一つの人道的な懸案が、今日から北京で始まる日朝赤十字会談で取り上げられる日本人の遺骨収集と返還、そして墓参問題である。

全国で講演してみるとわかるのだが、会場には北朝鮮からの引揚者の方々が必ずいる。日本海に面した清津からの引揚者から成る「清津会」だけでなく、咸興からの引揚者から成る「咸興会」という組織もある。このもう一つの「人道問題」に10年前から関心を持ち始めたのも「咸興会」に属している方にお会いしてからだ。

終戦60周年(2005年)の年に某全国紙に掲載された投稿(「北朝鮮への墓参 早く実現を願う」)が当時の北朝鮮からの引き揚げ状況を端的に物語っている。

「60年前の8月15日、平壌の官舎で私達親子は終戦を迎えた。父は当時、将校として部隊に入っており、39歳の母、8歳の私、4歳と生後7か月目の弟、日本からついてくれた若いお手伝いさんの6人で生活していた。

その2ヶ月前に、千葉の疎開先からやって来たばかりの私達だったが、この日のラジオ放送を境に生活が一変した。ソ連か下士官の略奪や暴行、手のひらを返したような態度の朝鮮の人たち、食糧難・・・・。私達は家を追われ、他の日本人家族とひきしめ合って暮らす毎日となった。

年が明け、収容された鎮南港の倉庫で、やっと立つことができて嬉しそうにしていた一番下の弟が、その翌日に発病し、急逝く。りんご箱に入れられ、小高い丘の共同墓地に葬られた。若い母親たちが、多くの乳児が埋葬された土饅頭(どまんじゅう)にお乳を振りかけていた姿が今も忘れられない。

その後、結核でやせ衰えた上の弟をおぶり、『38度線』を突破し、命からがら疎開先の千葉にたどり着いた。しかし、その一週間後に5歳になった弟は息を引き取った。マラリアに苦しんだ妹もその後、18歳の若さでこの世を去った。

10年前には、抑留されていたシベリアから生還した父と、下の弟を北朝鮮に埋葬してきたことを案じ続けていた母が相次いで他界した。気がつけば、あの丘の上に眠る弟を知っているのは私だけになった。母の悲願だった北朝鮮への墓参を一日も早く叶うのを願ってやまない」

厚生労働省によると、戦時中や終戦直後の混乱期、現在の北朝鮮で日本人3万4600人が死亡。うち1万3000柱の遺骨は日本に持ち帰られたが、約2万1600柱が北朝鮮に残っているとされている。これはあくまで公式に確認された数字で、実際にはその数はもっと多い。

昭和25年(1950年)に引揚げ援護庁の資料「引揚げ援護の記録」によると、「終戦時の在外邦人生存者数は660万人以上である」。このうちソ連軍管区(旧満州、北朝鮮、樺太及び千島)には272万人と全体の41%にあたる邦人がいた。そして「戦時中の生死不明者が相当数あった」と記されている。

朝日新聞(キーワード、北朝鮮の残留邦人)によると、「敗戦時、38度線以北の北朝鮮側に住んでいた軍人以外の邦人は27万人を超す」ようだ。さらに、「ソ連参戦後、約7万人が日本へ引き揚げようと、中国東北部(満州)から南下した。しかし、旧ソ連軍が38度線で交通を遮断したため、多くの邦人が北朝鮮各に留まざるをえなかったとされる」と記されている。

民間人だけで34万人。この他に病弱であるが故にシベリアから北朝鮮に移送された旧日本軍人がいる。

先月、会食した北朝鮮からの引き揚げ者でもある関東軍所属の元大蔵大臣の相沢英之さんから聞いた話では、その正確な数は不明だが、相沢さんが会長をされている「全国強制抑留者協会」には少なくとも北朝鮮に移送された3万人の名簿があるとのことだ。これは昨年訪ロした際にロシアから手渡されたそうだ。

従って、北朝鮮に駐留していた軍人及びシベリアから移送された抑留兵を加えると、8月15日の終戦直前まで北朝鮮に暮らしいていた日本人は総勢40万人は超すものと推定される。

中国に残留孤児がいて、東南アジアに横田さんや小野田さんなど旧日本軍人が生存していて、北朝鮮に一人も存在、生存していないとは常識では考えられない。厚生省は国交がないことから一度も北朝鮮に赴いて、取り残された日本人の消息、安否をまともに確認したこともない。

中断状態にある日本人妻の里帰りも含めて放置されたままの人道問題を解決することも日本政府、日本人に課せられた重大な戦後処理だ。67回目の終戦日を前に、日朝赤十字交渉の進展を願ってやまない。

【ブログ「ぴょんの秘話」より】