アリストテレスが語った本来のオリンピックとは?(大貫 康雄)
政治利用されるオリンピック
オリンピックは古代ギリシャでは、平和を希求し、人間の最高の善・価値を考えさせる催事で、勝者には最高の栄誉が与えられた。
今オリンピックは、参加国数、選手団の数、投資額などで世界最大の行事になっている。「都市主催」の名目だが、多くは国家の協力や支援が必要だ。当然、国家が様々に関与し、政治に利用され、翻弄されてきた。
ベルリン大会はナチス・ドイツが国威発揚に利用、モスクワ大会は西側諸国がボイコットした。ソ連軍のアフガニスタン侵攻に対する抗議だった。国威発揚の場として旧社会主義諸国の多くは国家総がかりで選手を強化した。その過程でドーピング問題も発生する。人々に愛国感情が高まり、関心が優勝者やメダルに向かう。
84年のロサンゼルス大会以来、商業化。純粋アマチュア選手はほとんど姿を消す。ドーピングは一向になくならず、巧妙になるばかりだ。
ミュンヘン大会では、オリンピック選手村がパレスチナ独立闘士のテロ攻撃にあい、イスラエルの選手たちが殺される事件が起きる。メキシコ・シティ大会では、陸上100mのアメリカのメダリストが表彰台で黒い手袋をはめた手を上に突き出し、人種差別に抗議の意思表示をした。
古代ギリシャの故事にならい、今年もアナン前国連事務局長がシリアの政府軍、反政府勢力双方にオリンピック期間中の停戦を呼びかけたが無視される。オリンピック本来の理想には程遠いのが実情だ。
ロンドン・オリンピックでは何が起こったか?
オリンピックは毀誉褒貶に富む。良い変化と言えばIOC(国際オリンピック委員会)がなるべく幅広い選手たちに参加の機会を与えつつあることだ。貧困国家の選手には練習の施設や競技参加の機会、資金などを提供している。今回のロンドン大会の印象に残る点を挙げてみる。
① IOCが全参加国に女性選手の参加を義務付けた。
男女平等を謳う意味でも一歩前進だ。宗教上、女性の社会進出を厳しく制限してきたサウジアラビアから女性柔道選手が帽子をかぶって登場した(しかし、イスラム圏の多くの国から体操や水泳などに女性選手が参加できるのは何時になるかわからない)。
② ロンドン大会の開会式は、前回北京大会に比べ総経費は少ない。
北京大会は巨額の資金を投入。急激に発展する中国の国力と威信を誇示した。ロンドン大会はコンパクトだ。開会式は世界で最初の産業革命以来の社会の変遷、戦争(第一次大戦)の惨禍などを示しながら、環境、人類の世代間の繋がり、平和と継承を謳う。
●暗闇の中を大勢の自転車走者が平和の象徴の白い鳩に扮して会場を周回した光景は人々に平和の意義を考えさせる。
●オリンピック旗を掲揚台まで運んだのは、中東和平の促進にイスラエル・パレスチナ双方の若者を揃えたオーケストラを率いる指揮者バレンボイム氏や国連の藩基文事務総長らだった。
●(ナチス・ドイツがベルリン大会で始めた聖火リレーだが、完全に定着したのは我々人間自身を理解する上で興味深い)今回は高い聖火台もなく、所謂、単独の最終走者もいない。聖火は若者たちから過去の大会の金メダリスト7人が受け、7人同時に点火すると輪となった後、各国の光が集まって一本の大きな松明になった。
●元ビートルズのP・マッカートニーさんらが「ヘイ・ジュード」を絶唱。歌詞を知る人はロンドン大会のメッセージを受け取っただろう。
人々に人類愛と平和をより深く考えてもらう意思が表現されていた。
③ 71歳で整然と競技をする馬術の法華津寛選手が世界の注目を浴びる。
人も馬も、若く体力があるだけで馬術競技では一流になれない。競走馬が3歳馬、4歳馬中心であるのに比べ、馬術競技の馬は年齢が高い。少なくとも10歳前後になる。何故か。
体力に任せ走るだけの馬は不適格だ。馬が騎手を理解し、自身を制御できる訓練を積み成熟する必要がある。若い馬では相当に難しい。
人も同様だ。経験と年齢を重ね、判断力を養い、根気強く、手足でだけ馬に意志を伝え理解させる技術を習得する。競技中は馬に声をかけてはいけないからだ。齢を重ねるに連れ衰える体力の維持も大事なことだ。
法華津選手は半世紀以上、こうした鍛錬を積んだ。71歳とは思えない姿勢だ。スポーツの世界でも高齢者に元気と活力を与えて世界の称賛を浴びる。
④ 内村航平選手が日本選手として28年ぶりに個人総合優勝をした男子体操。
この競技にもIOCの新しい規定で参加が実現した選手がいる(これまで各国6人の選手数を6人から5人に限り、体操弱小国の選手に機会を広げる規定にしている)。
この選手は数々の大怪我を克服し、アイルランドの体操選手として史上2人目となったキエラン・ベハン選手(23歳)。昨年、東京での世界体操選手権で見事オリンピック参加を認められ、世代を超えた感動を呼んでいる。何故、彼の参加が感動を呼ぶのか。
少し長くなるが、ベハン選手の過去を見てみよう。
ベハン選手は幼児の時体操に魅せられ、8歳から体操を始める。10歳の時、思わぬ不運に襲われる。左大腿の腫瘍の摘出手術を受けるが、大腿部をきつく縛った医師のミスで左脚の神経がマヒ、痛みもあり歩行困難になる。医師は、一生歩けないと通告し車椅子が用意される。しかし“絶対に元に戻る”と母親と二人でリハビリ。1年半後に完全回復する。
8ヶ月後、再び悪運に襲われる。今度は練習中に鉄棒で後頭部を打ち、脳が損傷して平衡感覚を失う。通常なら体操選手にとって致命的な損傷だ。頭も動かせない、目の前が真っ暗になる、歩けない……。病院での治療効果が進まないと医師を無視、母に抱えられて退院。仕事を辞めた母に介護されながら2年間、自分でリハビリを続け、再び元の体に戻る。
しかし体操に復帰したとたん、腕と手首を骨折。その後、さらに両膝を損傷する。2010年のヨーロッパ選手権を控えての時。悪運の連続を、母親や恋人に支えられる。そして2011年世界選手権で3個のメダルを獲得。まさに奇跡のカムバックだ。ベハン選手の文字通りの不屈の精神に圧倒される。
⑤ 女子バドミントン・ペアで韓国4人、中国2人、インドネシア2人の選手が競技に最善を尽くさないとして失格になる。
韓国では女子サッカーの日本チーム・なでしこが、南アフリカ戦でわざと勝たないで引き分けたが、何故失格にならないのかとの声が上がる。IOCは「調査したが問題なし」との声明を出す。なでしこの選手たちの疲労、負担を考え、長距離移動を避けるためという佐々木監督の弁明。何となくすっきりしない印象を与えた。
試合を見に来た人たちは、なでしこの最善のプレーが見られなかったので残念がったかもしれない。
意訳で恐縮だが、古代ギリシャのアリストテレスは、人間の最高の目的、最高の善を語り実践の進めを説く中で、オリンピックについて以下のようなことを言っている。
“最強で勝てるから最も強く、最も美しいのではない。最も大切なのは競技に参加して最善を尽くして闘い、勝利することである”(参加しなかったり、最善を尽くさなかったりしたら、いくら実力・才能があっても、美しくも何でもない。無用のものだ、との意。『Nichomachean Ethics』)
【NLオリジナル】