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日本の司法制度は民主主義の原則に違反している(大貫康雄)

大貫康雄 メディアと現代世界・第4回――検察審査会制度は独立・非公開?! 誰が責任を負うのか?」

前回ではアメリカ・カリフォルニア州での場合を例に、いかに具体的な証拠があっても裁判の過程で検察側に誤りがあれば無罪になること、また無罪判決が出た裁判で検察側は控訴できない、と憲法で規定されていることを話した。

アメリカでは立法、行政、司法が連邦制度と各州独自の制度が併存しており、連邦法と州法で異なる場合が多く、一概に言うことは出来ないが、法律で人を罪に処す刑事裁判は、そのくらい人権擁護に考慮することが当然であると考えられている。

余談であるが、そんなアメリカでも冤罪事件(司法権力、裁判による人権侵害)が多く起きて社会問題になっている。我々人間の判断は、それくらいに間違うものだ。それだけに、その過ちを未然に防ぎ、過ちを犯せば速やかに正すためにも、公開と市民参加が民主主義の基本にあることを忘れてはなるまい。

アメリカに比べ、日本の裁判がいかに被告の人権を考慮していないかがおわかりと思う。刑事裁判で冤罪が多発している根本原因に人権の軽視がある。

検察審査会という憲法違反の疑いが濃い制度による指定弁護士が、小沢一郎氏の一審無罪判決の後、控訴したこと。最高裁判所が指定弁護士の控訴を認め、控訴を認めないよう求めた小沢氏側の主張を退け、高裁での裁判を認めたことなど、人を公正に裁く資格がない者が裁判の場にいる異常な状態である。

私自身は、小沢一郎氏を出来るだけ長く裁判で拘束するため、検察だけでなく最高裁までが加担した策謀ではないか、とさえ疑ってしまう。

小沢氏の政治活動を制限するべく、出来れば政治生命を終わらせたいためではないか? と。元々無理筋の小沢一郎氏に対する捜査と起訴がいかに意図的であるか、新聞・テレビ報道の経緯を追っていくだけでも判るだろう。

アメリカだけではない、他の先進民主主義国の裁判を比較すると、日本の最高裁の異常さが浮き彫りになる。

前回お話ししたように、アメリカの陪審員制度は陪審員がメディアの報道などに影響を受けないよう、判決の前になるとホテルの中に缶詰め状態にされたりする。

シンプソン事件発生から判決までのアメリカ・メディアの狂騒ぶりは、決して特定の予断と偏見を持っていたわけではない。事件の展開と著名な関係者、それに人種間の結婚と悲劇の結末、というドラマの要素がいくつも重なって、人々の関心が高かったからだ。そしてメディアがそれをさらに煽って自分たちの商売に利用したからだ。

O・J・シンプソン事件の裁判で、陪審員たちは3カ月近くホテルと裁判所の間を往復するだけで、新聞テレビの報道に接しないようにされた。陪審員たちが予断を持たず、あくまでも検察側、弁護側双方の証拠や主張だけから判断するよう、環境が設定された。

日本の場合は、検察側がマスコミと結びつきメディアを利用している状況だ。これこそ異常な状態と言って良い。

陪審員たちは、判決までは外部の影響を受けないよう隔離状態に置かれたが、人が有罪か無罪かの判断をする権限と責任を担った以上、裁判終了後は判断の理由を話すことは当然であり、自分から積極的に語る人も相当いる。

O・J・シンプソン裁判の後、メディアのインタビューに答え、体験を出版する者も相当いる。裁判は、基本的に市民に開かれ市民が積極的に関与し、権限と責任を行使するようになっている。

アメリカではO・J・シンプソン事件の裁判後、陪審員制度の見直しを主張する声も出たが、各種の世論調査結果をみる限り、大多数の国民は依然として、市民が参加する陪審員制度を支持している。

 

裁判員は判断の根拠と理由を語るべき

日本の裁判員制度は陪審員制度と似て非なる制度だが、裁判員たちに一定の秘密遵守の義務が課されているのが危うい点だ。

日本では検察側が控訴できるので、被告は相当長期間裁判に拘束されるし、判決が確定しないので、一定の秘密遵守義務があるのだろうと考える。それでも。裁判員は判決の後は責任を持って自分の判断根拠、理由を語る(公開する)べき、であると考えている。

検察審査会は、申し立て人の理由が正当なのか誰が判断するのか、検察審査員は誰なのか、誰がいかなる方法で選ぶのか、どのような論議を経て、どんな理由で起訴なり不起訴なりを判断するのか、一斉非公開、つまり秘密である。

余りにも民主主義の原則に基本的に違反している。

強制的に人を罪に問う検察審査会の判断、その誤りの責任規定も不十分だ。検察審査会の過ちの被害者は付審判制度で賠償を受けられる、という専門家もいるが、付審判制度自体、本当に機能するのか? 冤罪事件を考えれば判るように、被害者の権利が踏みにじられ、人生を狂わされた。その失われた年月、事件は戻ってこない。

こんないい加減な制度が、いかにして造られたのか、その過程でさえ明かにされていない。こんないい加減な制度の検察審査会が秘密である上、三権から独立(?!)。中国人やロシア人には大変失礼な想定だが、現中国共産党やプーチン政権でさえも思いつかない制度ではないか。

検察審査会法が突然のように改訂され、強制起訴の権限が加わったのは2009年5月、自民党政権末期の緊迫した状況下のこと。

当時の国会で充分な審議が尽くされてはいない。大方の国民が、改訂の意味を理解できないまま決められている。国会に誰が強制起訴をいかなる理由で発案し、誰が改訂決議を支持したのか? 自由という人の人権を安易に侵害する“悪法”を行使した者と共に悪法を作った者の責任を追及する視点を持つべきではないか。それでないと何時までも悪法が作られる危険性がある。

小沢一郎氏に対する検察審査会の強制起訴議決が、検察審査会法それ自体の理念に反していることはようやく指摘されるようになった。

また、森ゆう子議員の大変な調査と追求で小沢一郎氏を巡って司法(法務省)官僚や司法府(裁判所)官僚の疑惑に満ちた一連の動きや、検察審査会制度の矛盾と危険性が明白になった。厳密に考えれば、司法官僚と司法府官僚たちの共謀犯罪の疑いが濃厚である。

そうした背景が明るみに出されつつある今、国会議員たちも法曹界も、検察審査会の矛盾、危険性が明白になった以上を指摘し、一刻も早く制度を廃絶するか、開かれた制度に変えるべきである。それが国会議員の責務である。

【NLオリジナル】