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日隅一雄さんとの約束(上杉 隆)

日隅一雄氏が亡くなった。

訃報を受けて、私が最初に心の中でつぶやいた一言は「お疲れさまでした」だった。

享年49、あまりに若すぎる死だが、日隅さんの「闘い」を知る者としては、「お疲れさまでした。ゆっくり休んでください」とホッとする気持ちが先に来たのが正直なところだった。

ジャーナリストの日隅さんは、産経新聞記者から弁護士に転身した変わり種だ。

私が最初に日隅さんと関わりを持ったのは2005年頃、NHK番組改変問題の取材(文藝春秋)でのことだった。

ただ当時の印象は「メディアのことに精通した鋭い弁護士だな」という程度のものだった。その後、いくつかの取材の際に、よく名前を聞く弁護士として記憶していたに過ぎない。

お互いきちんと話をするようになったのは、自由報道協会の設立時のことだった。

2011年、自由報道協会の法人設立の際の連帯保証人のなり手がなく、筆者は途方に暮れていた。

フリーランスジャーナリスト等の集まりである自由報道協会の特性として、保証人になれる人物は限られている。経済的な事情や社会的な信用からも「保証人なし」の状態になり、事務所すら借りることができなくなるという危機的状況に、手を差し伸べてくれたのが日隅さんだったのだ。

当時、日隅さんは協会メンバーではなかった。だが、筆者のなんとしても日本の言論空間を健全なものに変えたいという訴えに真剣に耳を傾けてくれていたのだ。そして、こう言ってくれたのだ。

「上杉さん、信じましょう。本気で記者クラブのシステムを変えて民主主義を実現させるならば、そして絶対に途中で投げ出さないのならば、私が連帯保証人になります」

その2ヵ月後、3.11が発生、筆者は東京電力本店の会見に通いだすことになる。そこで、再び日隅さんと遭遇することになったのだ。

「そろそろ、始まりそうですよ」

震災直後、自由報道協会代表として、政府や官邸との交渉や申し入れに忙殺されていた筆者の携帯電話を鳴らして、東電会見の開始を知らせてくれたのは日隅さんだった。

最初、日隅さんに紹介された木野龍逸さんを加えた私たち3人は、不思議な連帯感に包まれていた。

会見中、フリーランスには座る席が用意されていない。一方で大手メディアの記者たちには「別室」まで用意されている。だから、私たちはファックスの前の窮屈な席を3人で替わる替わる使うことになったのだ。

3月中、日隅さんは弁護士業と両立させながら、筆者はラジオやテレビなどのメディア出演の合間にそれぞれ会見に通っていた。

また、木野さんは、文字通り24時間体制での東電会見「監視役」となり、その後、日隅さんとともに政府・東電の欺瞞を暴く、なくてはならない存在となっていく。

思い出すのは4月4日のことだ。その頃になると記者の数も多くなり、ギリギリにやってくる日隅さんの居場所はいつもドア近くのホワイトボード脇のスペース、そこに立ちながらの質問となっていた。

「あなたたちを責めているんではないんですよ。ぼくだって権限のないあなたたちを責めたくはない。だけど、これはですね、主権者である国民の代わりに聞かなくてはならないことなんです」

鋭い質問を繰り返しながらも、日隅さんは常に一般市民や社会的弱者に寄り添い、そしてまた質問を浴びせる「相手」に対しても優しさを忘れなかった。

5月、その日隅さんが末期がんに冒され、余命6ヵ月だということを自由報道協会のメンバーで、会見に参加し始めたばかりの芸人おしどりマコさん(鳥取大学医学部中退)から聞かされたときは、私は言いようのない重荷を背負ったような軽いショックを受けた。

というのも、筆者はすでに東電会見を離脱し、海産物を中心とする食品の放射能汚染の取材に移っていたのだが、日隅さんの脱落によって、またあのストレスフルで肉体的にもしんどい会見に戻らなくてはならなくなるのかと覚悟したからだ。

ところが、その直後、信じがたい話が耳に入ってきたのだ。

「日隅さん、病院を抜け出して東電会見に来ていますよ」

木野さんやおしどりマコさんからそう聞いて、私はすぐに日隅さんに電話した。

「ここで止めるわけにはいかないんです。ここで止めたら死ぬほど後悔する。いや死んで化けて出るから後悔はしませんが。気にかけてもらってすみません。でも会見には出ます。上杉さんは気にせず、ご自分のやるべきことを続けてください」

実際、治療や療養の合間に日隅さんは日比谷の東電本店にやってきて、時に苦しそうに肩で息をしながら、文字通り命がけの質問を繰り出す。こうして、壮絶な「闘い」が始まったのだ。

12月、日隅さんの体調はすぐれず、東電会見にもあまり出てこないで、たまに出てきても苦しそうで、動けなくなることもあると教えられた。

直後、岩上安身さんのIWJの1周年パーティで日隅さんと話した私は、一つの「お願い」をすることを決意した。

それは、それまで電話などで頻繁に話をするようになっていた日隅さんが、ある日、ふと漏らした言葉がずっと胸に引っかかっていたからだ。

「上杉さん、私は、私がこの世に生きていたという証拠がひとつだけでもほしいんですよ。肉親も弟だけですし、元新聞記者だけど、新聞は私のことは絶対に書かないでしょう。でも、何か、存在したんだという証拠を残したいんです」

当時、それは東電会見に通うことであった。だが、私はもっと具体的な形で「日隅一雄」というジャーナリストがこの世に存在したということを残したかった。そこで、改めて二人だけで会ったとき、日隅さんにこう「お願い」したのだ。

「日隅さん、日隅さんにお世話になっている自由報道協会ですが、おかげさまで来月に1周年を迎えます。そこでアワードを行う予定なんですが、そのことでお願いがあります。その大賞に、日隅さんのお名前を冠としてつけさせてもらえませんでしょうか?」

日隅さんはしばらく黙っていた。本当に不思議な沈黙だった。そして、俯いたままこう聞き返してきた。

「無名の、まったく無名の私なんかでいいんですか?」

私は頷き、そしてさらにもう一つのお願いをした。

「ありがとうございます。受けてくれるんですね。もう、取り消せませんよ。ということで、来月末に受賞式がありますから、そのプレゼンテーターとして出席ください。代理出席は認めませんからね。絶対に出席してくださいよ」

1月、自由報道協会賞の準備で徹夜続きの事務局に一本の電話が鳴った。外国人女性が英語で話す電話は奇妙なものだった

「ポストに封筒を入れました。すぐ見てください」

インターンの小島香織さんが確認しに行くと、実際にポストに封筒が投げ入れられており、中には大金が入っていたのだ。

〈自由報道協会賞の賞金のために使ってください〉

ここで初めて明かすが、実はその寄付は、日隅さんからのものだったのだ。

日隅さんは、自分の名前を冠として大賞につける際、私にひとつだけ条件を出した。

「ありがとうございます。ただし、一つだけ条件があります。それは私に匿名で寄付をさせてください。そして最低3年は続けてください。その分も用意します。その賞がすべての若いジャーナリストの励みになるようなものに育ててください。それだけが条件です」

筆者は、いま「匿名条件」という日隅さんとの約束を破った。

だが、もうひとつの約束である「自由報道協会」とそのアワードを育てるという約束は必ず守る。

それが、6月12日の夜、日隅さんの安らかな顔を見ながら誓った、筆者からの追悼の言葉でもある。

 

 

ダイヤモンドオンライン週刊上杉隆【第2回】6月14日掲載