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中国の民主化運動(相馬 勝)

最近、中国の政治改革論議がかまびすしい。広東省の汪洋党委書記が政治改革問題で重要演説を行い、それが人民日報の第5面の1pを費やして報じられた。ただ、温家宝首相も昨年から頻繁に政治改革の必要性を強調しているが、胡錦濤主席ら最高指導部はまったく無視の構えだけに、本当に政治改革論議が軌道になるのは、次の習近平体制のときになるかもしれない。あるいは、もうちょっと先かもしれない。それは共産党一党独裁体制の放棄の危険性があるだけに、いずれにしても慎重になるのは間違いないからだ。
ところで、民主化運動指導者といえば、さきごろ亡くなった、アリゾナ大学教授だった方励之氏と王丹氏を差し置いては語れない。

[caption id="attachment_603" align="aligncenter" width="304" caption="王丹氏(最近太ったな!) "]王丹氏(最近太ったな!)[/caption]

私は方励之氏と2人を北京や米国で取材したことがある。

方氏と初めて会ったのは1989年6月の天安門事件のきっかけとなった民主化運動の最中だった。王氏ら北京の学生による民主化運動が始まったのは4月15日の胡耀邦・元中国共産党総書記が心臓発作で死亡した翌16日からで、当初は胡氏の追悼デモだったが、次第に政治改革や民主化を要求するなど先鋭化し当局と対立。運動のリーダーだったのが当時、北京大1年生の王氏で、彼が民主化運動の師と仰いだのが方氏である。

王氏は北京大入学後、民主化を論じ合う会合で方氏と出会い、中国共産党統治下の民主化運動や政治改革について教えを受け、89年春の民主化運動の際も、方氏のアドバイスを頼りに運動を進めていた。

筆者は当時、北京の現場で取材していた。親しくなった王氏から方氏に連絡してもらい、天安門事件直前の5月下旬、北京の方氏の自宅で単独インタビューに成功した。その際、方氏はいかに共産党政権が腐敗しているか、民衆主導の政権作りのためには複数政党制や法制の整備、報道の自由などが必要だと力説していた。

しかし、天安門事件後、方氏夫妻は当局の手を逃れて米国大使館に駆け込み、そのまま13カ月間も大使館から一歩も出られない状態が続いた。が、米中間の外交折衝の結果、方氏夫妻は病気療養の名目で英国に出国し、その後、米国に亡命状態だった。

筆者は1991年から92年と、99年から2000年の2度にわたって米国に留学した際、テキサス大に方氏を訪ね旧交を温めた。方氏は米国に亡命しても、常に中国の行く末を気にかけていた。

 

「このまま経済改革を進めていっても、複数政党制のような政治体制改革や党幹部の富や権力が集中することを避ける法制度の改革を進めないと、天安門事件同様、いずれ民衆の不満が爆発し、多くの民衆の血が流されることになろう」

方氏は深く嘆息をつくなど、中国の政治状況の不透明性方に強い懸念を抱いていた。その憂慮が晴れないまま、死去した方氏の無念さはいかばかりだったろう。

これは王氏も同じだ。事件後、王氏は逮捕され7年近く投獄されたあと、やはり病気治療の名目で米国に渡った。彼がハーバード大で学んだ際、奇しくも筆者も同大に留学していた。大学院で、定員が6人の中国現代政治史の講座を受講すると、何と隣りに王氏が座っていたのだ。旧知の間柄でもあり、クラスメートということで、われわれはすぐに打ち解け、自宅に招いて食事をともにするなど、いまも浅からぬ交流を続けている。
これらのいきさつについては、すでに絶版になったが小学館から出版していただいた「中国共産党に消された人々」に詳しく書いた。同書は小学館ノンフィクション大賞の入選作となった。
では、今年秋の第18回党大会で習近平・国家副主席が最高指導者に就いたあと、中国で天安門事件のような大きな変化は起きないのだろうか。

「胡錦濤時代までは経済成長が右肩上がりで、北京五輪や上海万博などの国威発揚のための国家的行事が多かったが、習近平時代の10年間では、人口も老齢化し労働人口も減少、工業生産も鈍って貿易も後退するなど、これまでのような経済成長は見込めず、社会構造が劇的に変化する」

上海の名門、復旦大の張軍・中国経済研究センター所長(教授)はこのように分析したうえで、「習近平政権でも、これまでのように富の一部富裕層への集中や格差の拡大などによる社会矛盾を解決できなければ、再び天安門事件のような大きな混乱が発生する可能性は否定できない。習氏は政治体制改革や経済改革の深化、さらに民主化推進に着手せざるを得ない」と指摘する。そのとき、習近平がどのような対応をとるのか。今後とも中国を注意深くウオッチしていきたい。