【自主避難者から住まいを奪うな】避難者の叫びは国会議員の胸に響いたか?福島県庁ではハンスト継続中(鈴木博喜)
「避難用住宅の無償提供の打ち切りに反対し、撤回を求める院内集会」(主催:ひなん生活をまもる会)が9日、参議院会館で開かれ、全国の自主避難者たちが打ち切りへの不安と被曝回避の大切さを訴えた。何度も何度も頭を下げる避難者たち。涙を流し、怒りに語気を強める姿は、駆け付けた国会議員にどう映ったか?まもなく原発事故から51カ月。福島県庁ではハンガーストライキも始まった。だが、国や福島県は依然として「協議中」との姿勢を貫き、避難者たちを愚弄し続けている。
【「逃げざるを得なかった」】
自主避難者たちが集うのは、これで何度目になるだろう。仕事を休み、交通費を費やして、全国から永田町に避難者が駆け付けた。
「住宅支援は命綱。子どもを2人育てるとしたら、保育園の費用だけでパート代が吹き飛んでしまう」。札幌市に避難した女性は言った。「決して家賃助成に甘えて生活をしてきたわけではありません。選択的避難権を認めてください」。
相馬市から滋賀県に避難した男性は、怒りを抑えるように語った。「相馬市には、原発事故由来の避難者はいないそうです。今まで、市から避難者向けの手紙が届いたことは一切ない。大学生の娘は甲状腺検査でA2判定でした。安全に暮らせるということが担保されないまま、福島に帰るわけにはいかないんです」
静岡県に避難中の男性は、原発事故から5カ月後に妊娠中の妻と5歳の長男を連れて郡山市を離れた。「私だって、いつまでも公的支援にすがって生きるのは心苦しいです。多くの国民の皆様の汗水にすがって生きることになるからです。支援はいつかなくなる。問題は幕引きの仕方なんです」。男性は原発事故直後から国と闘い続けている。「最愛のわが子に胸を張れる父親であるためにです」。福島市から京都に逃げた女性は、腹痛の伴わない下痢に悩まされた。子どもは鼻血を出した。家族を説得し、学校へのあいさつを済ませて西へ向かった。「自主避難者は勝手に逃げたのではなく、逃げざるを得なかったのです。ラジオでは外出を自粛するよう呼び掛けていたけれど、暮らしていくには給水やスーパーの行列に並ぶしかなかった」。当時、福島市内では20μSv/hを超える放射線量が計測されていた。
いわき市の男性は、妻子を横浜市内に避難させている。「半年前、除染業者が自宅の放射線量を測ったら『結構高いね』と驚いていた。つい先日、別の業者が再び測りに来た。今度は測り方が前回と違う。すると『0.23μSv/h以下だから除染対象外ですね』と言う。冗談じゃない」と声を荒げた。「実際、病気が増えているじゃないですか」。3人の子どもと妻を福島県外に逃がしているのは、郡山市の男性。「20歳になるまで子どもを避難先に置いて欲しい。20歳になったら戻るかどうかを子どもに決めさせて欲しい」。最近、4人目の子どもが産まれた。妻は大量出血し、幼いわが子の心臓には疾患が見つかった。医師は「被曝の影響?うーん、分からない」と首をひねったという。
【住民避難を嫌がった福島県庁】
避難者たちは代わる代わるマイクを握り、住宅無償提供を打ち切らないよう訴えた。涙を流す女性、緊張で手が震える男性。どうして被害者がここまでしなければ当然の権利を手にできないのか。そして、都内での避難生活を続ける女性は、勇気を振り絞って言った。「あの時、菅首相が『みんな避難するべきだ』と言ってくれていたら…」。視線の先では、菅直人元首相が時折メモを取りながら避難者の言葉を聴いていた。
「今日は私の過去の経験を言う場では無いが…」。国政の最高責任者だった自分に対する批判が根強いことは分かっているのだろう。菅元首相は静かに語り始めた。「もっと早い段階でSPEEDIを避難の指針として使うべきだった。私の責任。申し訳なく思っている」、「自主的避難だから、という区別はあり得ない」、「住宅無償提供は絶対に打ち切るべきではない」。そして当時、福島の各自治体が住民避難に消極的だったと打ち明けた。「個人的にはできるだけ避難の基準を厳しくしたかったが、『自治体が機能しなくなる』と自治体関係者の声があった」。
原発事故当時、双葉町長だった井戸川克隆氏は「彼は正直に話した」と元首相の言葉を振り返った。「当時、福島県庁は官邸にものすごい圧力をかけた。佐藤雄平知事(当時)は俺に言ったんだよ。『県民を外に出したくない』ってね」。住民の生命を守るはずの行政が住民避難に消極的な姿勢をとった結果、多くの「自主避難者」を生んだ。そして今、彼らを切り捨てようとしている。井戸川氏は呼び掛けた。「皆さんは必要に迫られて動いたんだ。自主避難ではありませんよ。そういう考えは捨ててください」。
会場には、福島県いわき市出身の森雅子参院議員(自民)の姿もあった。あいさつで「子ども被災者支援法案提出の筆頭議員になった」と胸を張ったが、「悲痛な訴えを関係者に届けたい」とだけ話して足早に会場を後にした。森議員は、2012年12月の福島民報のインタビューで「自主避難者を支援する態勢の整備を急ぐ」と語っているが、住宅無償提供延長について、避難者を前に具体的に言及することは無かった。
大島九州男参院議員(民主)に至っては「内堀さん(福島県知事)だって、国が金を出すと言えば支援を断らないだろう」と、県知事をかばうような発言をする始末。結局、子ども被災者支援法の成立に奔走した一人、福島県伊達市の金子恵美衆院議員(民主)の言葉が政治の無力さを物語っていた。
「こんなはずじゃなかった、と悔しい思いをしている日々です」
【国の姿勢は「いい加減に自立しろ」】
福島県南相馬市から神奈川県に避難している女性は、こんな言葉で自主避難者たちの苦境を表現した。「1年ごとに死刑宣告を引き延ばされているようなものだ」。これまで全国で展開された要請行動で、国も福島県も「協議中」と繰り返した。福島瑞穂参院議員(社民)ら支援法議員連盟の申し入れにも、政務官は「まだ決まっていない」との答えにとどまったという。先日の委員会でも、山本太郎議員の質問に対し、山谷えりこ大臣は「福島県からの協議書が正式に提出されていない」と具体的な答弁を拒否した。山本議員は「被曝の問題は、政治の中では終わったことになっているんですよ。被害を矮小化させないと原発再稼働も原発輸出もできないから」と怒りを込めて話した。
「国のスタンスははっきりしている。『いつまで国に甘えるんだ。いい加減に自立しろ』ですよ。どうして加害者が被害者を線引きするんだ?なぜ密室で決める?」
福島市を離れて関西での生活を続けている女性は「見える所だけが立派になっても、そんなの復興じゃない。有名な人を呼んでイベントをしたり、子どもたちに食べさせて大丈夫だとアピールすることが復興か」と言葉を強めた。福島県庁では、富岡町から神奈川県内に避難中の坂本建さん(47)がハンガーストライキの座り込みを始めた。梅雨空の下、命がけで支援を求める避難者を尻目に、国は「福島県が」と言い、福島県は「国と協議中」と馬鹿の一つ覚えのように繰り返す。「ひなん生活をまもる会」代表・鴨下祐也さんの言う「打ち切りへの恐怖」から、避難者を一日も早く解放させるのが政治の務めだ。
(文・写真:鈴木博喜)