ノーボーダー・ニューズ/記事サムネイル

貧困層を救う音楽活動「エル・システマ」とは?(玉木 正之)

全世界が注目するベネズエラの音楽活動「エル・システマ」

南米のベネズエラと言えば、産油国としての石油の利権と、アメリカに最も嫌われているチャベス政権……しか話題がないと思っている人も少なくないかもしれないが、そこには世界の音楽界が大注目している「エル・システマ」と呼ばれる音楽教育システムが存在する。
以下の原稿は、(株)ヤナセのPR誌である『Yanase Life Plaisir』(2009年5-6月号)の巻頭コラムに書いたものですが、少々手を加えて御紹介します。


南米ベネズエラの音楽活動に注目!~その名は「エル・システマ」

いま、南米ベネズエラのクラシック音楽界が、全世界から注目されている――と書くと、ええーっ! と驚く人も多いだろうが、事実である。

約30年前の1975年、経済学者で作曲家、ベネズエラの国会議員や文化大臣を務めたこともあるホセ・アントニオ・アブレウ博士という人物が、子供たちを貧困と麻薬と犯罪から救うための音楽教育活動を提唱し、通称「エル・システマ(ザ・システム)」と呼ばれる財団を創設した。

最初は首都カラカスの街角の駐車場に、わずか11人の子供たちを集め、楽器の演奏を教えただけだったが、その運動は年を追うごとに大きく発展。今日では全国の都市に90以上もの児童オーケストラ、130以上の少年オーケストラ、30以上の成人オーケストラが誕生し、約25万人のメンバー(!)と1500人の指導者を擁する大組織になった。

この「エル・システマ」に加わっているメンバーの約75%が貧困層の出身。音楽をやりたいと思った子供は、3歳になると希望する楽器を国から無料で貸与され、全国各地にある研修所に通えるという。

その指導法もユニークで、楽譜も満足に読めないうちから児童オーケストラの一員となり、見様見真似でベートーヴェンやチャイコフスキーの交響曲、バーンスタインのミュージカルやラテン音楽などを演奏する。そして音楽を楽しむなかから徐々に高度な指導を受ける。

そうして成長し、優秀な技術を身につけた子供たちは、シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラ(SBYOV:現在の日本での名称はベネズエラ・シモン・ボリバル交響楽団)というトップ・オーケストラの一員に選ばれる。

約200人のメンバー全員が20歳代のこのオーケストラを指揮するのは、弱冠1981年生まれのグスターボ・ドゥダメルだ。

彼も「エル・システマ」で育ち、16歳のときからSBYOVの指揮者として活躍。2004年の第1回グスタフ・マーラー国際指揮者コンクールで優勝して脚光を浴び、いまではベルリン・フィルやウィーン・フィルを客演指揮。2007年からはエテボリ交響楽団の主席指揮者、2009年からはロサンゼルス・フィルの音楽監督兼常任指揮者に就任した。

さらにミラノ・スカラ座やベルリン国立歌劇場など、世界の超一流のオペラ座の指揮者としても活躍。いまでは世界のクラシック音楽界で第一人者と言えるほどの指揮者にまで成長した。

そしてデュダメルの指揮するSBYOVは、名門ドイツ・グラモフォンと専属録音契約を結び、ベートーヴェンやチャイコフスキーやマーラーの交響曲のCDを発売し、ヨーロッパや北アメリカ、そして日本へも演奏旅行を行うまでになった。

昨年(2008年)12月の初来日公演(マーラー作曲『交響曲第1番巨人』ほか)を有楽町の東京国際フォーラムで聴いたが、約200人の大オーケストラのメンバー全員の全身から、爆発するようなエネルギーが感じられる見事な演奏だった。

しかもアンコールでは、赤・青・黄の派手なベネズエラ国旗カラーのジャンパーに着替えたメンバーたちが、立ち上がって踊り、叫び、足を踏み鳴らしながら、『マンボ!』(バーンスタイン作曲『ウェスト・サイド・ストーリー』より)を演奏。5000人の満員の聴衆を興奮の坩堝に巻き込んだ。

しかし、そんな感動的な演奏以上に素晴らしいのは、貧困と麻薬と犯罪から子供たちを守る「エル・システマ」の社会活動が、現在も継続され、貧困層の子供たちを中心に、若い音楽家が続々と育っていることである。

音楽やスポーツなどの文化には、一部の人々が楽しむだけでなく、また一時的な話題として注目を集めるだけでなく、社会全体をより良くする大きなパワーが備わっているのだ。

日本でも、音楽界はもちろんのこと、プロ野球もJリーグも大相撲も、本来は我々の社会にもっと有意義な価値をもたらすはずで、そのポテンシャルを発揮させるためには、「エル・システマ」の活動は、大いに参考になるはずだ

【『Yanase Life Plaisir』(2009年5-6月号)に加筆】