田中角栄とメディア(2)
この「文書」が角栄の手元に届いた1カ月後には、皮肉なことに彼自身が
「別の文」を示しながら、総理の椅子から立ち上がらなければならなくなって
いた。1974年11月26日、角栄は辞意を表明した。
〈一人の人間として考えるとき、私は裸一貫で郷里を立って以来、一日も休む
ことなく、ただまじめに働きつづけてまいりました。顧みまして、いささかの
感慨もあります。しかし、私個人の問題で、かりそめにも世間の誤解を招いた
ことは公人として不明不徳のいたすところであり、耐えがたい苦痛を覚えるの
であります。私はいずれ真実を明らかにして、国民の理解を得てまいりたいと
考えております〉(「退陣決意表明文」)
首相就任当時、60パーセント台の支持率を誇った角栄は、「金脈」という疑
惑を晴らせないまま総理の座を降りた。そしてその疑惑について、結局死ぬま
で「真実を明らかに」することのなかった角栄は、正負両面の「遺産」を娘に
残すことになった。