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【第5回】フクシマの声〜除染装置は生きて行くための武器/二瓶広幸・永子さん夫妻(久保田 彩乃)

Voice Of FUKUSHIMA~福島に生きる人たちの声~【第5回】

(二瓶広幸・永子さんご夫婦)

福島県郡山市。今や除染作業の光景は日常のものとして市民の目に留まる。

本格除染が行われている現在は、公共施設だけでなく、個人の家々も高圧洗浄や表土除去が進められている。

郡山市の除染計画によると、市内の除染期間は2011年度(平成23年度)~2015年度(平成27年度)までとなっている。重点期間とされる今年の8月末までに、「市民の生活環境の年間追加被ばく線量を、平成23年8月末と比べて約50%減少させることを目指す」としている(http://www.city.koriyama.fukushima.jp/pcp_portal/PortalServlet;jsessionid=DE3AC75D32D0B4E8B266B9627B16A749?DISPLAY_ID=DIRECT&NEXT_DISPLAY_ID=U000004&CONTENTS_ID=25801#郡山市ふるさと再生除染計画(初版))。

今回は一組の夫婦に話を伺った。夫の二瓶広幸さんは、震災後仲間と研究を重ね、自作の除染装置を開発、現在実用化に向けて活動をしている。妻の永子さんは震災・原発事故後、この福島に残ることを選択した。

おふたりは現在の生活についてどう思っているのだろうか。

広幸「それまで私は放射能に関してあまりに無知で、原発事故があってからも漠然と『大丈夫だろう』と思っていました。今考えれば本当に危機感がなかったと思います、状況を何も知らずにとにかく大丈夫だろうとしか思っていませんでしたから」

一方で妻の永子さんは、原発事故への当時の不安をこう口にした。

永子「私はすごく恐れていたので……『早く逃げなければいけない、福島にいてはいけないのではないか』と考える方でした。チェルノブイリの事故の後、乳がん患者が増えたというのを聞いていましたから、今回の原発事故もそのくらい怖いものだと認識していました。だから事故が起きて爆発した映像をテレビで見た時は、これは大変なことになったと思いました。足がガクガク震えて動けないんです、テレビから目が離せず寝られない状態でした」

妻の不安をよそに、広幸さんはやはり事故への楽観視は続いたようだ。

広幸「だから妻とはほぼ毎日のようにケンカをしていましたよ。関心を持つようになったのは近所に住む女性たちと話してからです。不安に感じているのは妻だけではないんだと、本当に大変なことが起きたのだと気づかされました」

それから広幸さんは永子さんの話に真剣に耳をかたむけるようになった。講演会に出向き情報収集をしたり、放射線防護学の先生を招き、学習会を行なったりもした。

情報や知識が増えるほどに大変な現実を思い知らされる日々だったという。

広幸「私には何ができるのかを考えるようになっていました。そんな時に、知り合いから『一緒に除染作業の仕事をやらないか』ともちかけられ、即OKしました。その当時は除染についても手さぐり状態で行っていて、屋根や雨どいを高圧洗浄すればかなり落ちるなどと言われていました」

しかし、広幸さんの考えをすべて否定する出来事が起こる。

広幸「事故が起きた2011年12月24日、福島市の御山という地区の家で除染作業をやったんですよ、屋根の上を朝と夕方の2回。しかし不思議なことに、やってもやっても線量が下がらないんです。下がらないどころか、朝より線量が高くなったんですよ。雪も降ってきてね、クリスマスイヴに自分は何をやっているんだろうと、非常に切ない気持ちになりました……」

広幸さんはそれまでに4軒の除染を行なっていた。他の4軒は線量が下がったのに、なぜ「この一軒だけが?」と疑問が残る。広幸さんはここから、除染に関する研究を開始した。

広幸「年が明けて2012年1月、仲間と本格的に研究を始めました。ほとんどのセシウムは地面に積もっているという事実から、これをどうにかして、線量を下げる努力をしていこうという目標を立てて、除染装置を作ってみることにしました」

震災後も放射能に無関心だった夫の変わり様、除染装置を作るということに対し妻の永子さんはどう見ていたのだろうか。

永子「事故直後からあれほど言っても反応しなかったのに、急にどうしたのかと戸惑いましたよ。除染の装置は、簡単なものならできると思いました。でも今出来上がったような本格的なものになるとは思ってもいませんでした」

事故当初は、夫の放射能への無関心さに苛立ちを覚えていた永子さんだが、時が経つにつれ、帰宅するたびに除染の話をする広幸さんを疎ましく思い、ケンカになってしまったこともあったという。

広幸さんが除染装置を作ると周囲の人たちに話すと、批判を受けることもあった。

広幸「濾過装置に使う材料の布を調達しに県内の手芸用品店に行ったんです。当初はその店の社長も協力的だったのですが、一か月くらい経ったある日、突然『そんなことやったって変わらないからもうやめろ』と言われてしまいました。さらにその人は『例えば米や野菜だってお金のない人はそれを食べるし、ある人は県外のものを買って食べるんだから、それでいいじゃないか』と続けたんです。もう頭にきて、その店に行くのはやめました」

放射能問題、こと除染に関しては現在でも県民の中で考えは一致していない。除染をすべきか否かというだけではない。個人レベルでやるべきか、行政に任せるべきか、除染した地域に再び戻って生活をするのか、除染した土はどうする、そもそも福島第一・第二原発の事故処理が終わっていないのに除染するというのは金の無駄だという考えもある。

この除染とそれに絡まる問題を、県民は一人ひとり違った状況で考えている。世代間、男女間、地域間、家庭環境など自分の置かれている立場は誰一人同じではない。

その意見がぶつかった時、単なる考え方の違いで済めばいいのだが、時にはこれがいさかいを生み、人間関係を壊してしまうこともある。それは家族も例外ではない。

二瓶さん夫婦は、この問題をとにかくお互いの意見を聞き合うことで、解決させようとしているようだ。

広幸「原発事故がなければ夫婦円満に生活できていたかもしれない人たちがたくさんいるかもしれませんが、こればかりはしょうがないんだよね。除染のことだけでなく自主避難で家族がバラバラになって、離婚をしてしまう家族というのもいるわけだからね」

夫が除染装置を開発する一方で、妻の永子さんは現在の状況についてこう話した。

永子「今郡山に住んでいることは、宿命というか運命というか。ここに住む中で、やれることをやっていくしかないんだと思っています、それにこれだけ世界的にも大きな問題になってしまったら、原発についてはどこに住んでいても考えていかなければいけないことだと思います」

新しい協力者もあり、除染装置の開発は順調に進んでいるようだ。9月までに完成させ、個人レベルで使用できるようにしていきたいという思いが、広幸さんにはある。

広幸「今は、除染に対してどうでもいいと思っている人にはいくら訴えかけても仕方ないんです。私たちは『危険なものを何とかしたい』と考えている人たちへ訴えかけていこうと思っています。除染装置はあくまでも私たちがここで生きていくためのひとつの武器にしかすぎません」

「除染装置はここで生きていくためのひとつの武器」。すべての福島県民がこのことを理解するのには一体どのくらいの時間がかかるのだろう。そしてこの先県民は、どんな武器が必要になるのだろうか、放射能という見えないものと闘っていくために。

二瓶広幸さんが開発中の除染装置・その製作段階や思いを載せたブログ

「おじさん達の除染奮闘記」(http://ameblo.jp/ojf/

[caption id="attachment_10763" align="alignnone" width="620"] 二瓶広幸・永子夫妻[/caption]