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終戦(玉音)放送後、日本に何があったのか?(大貫 康雄)

 〈米国の「終戦記念日」は9月2日〉

広島、長崎の被爆の日と同様、メダル重視のオリンピック報道で今年の8月15日「終戦の日」終戦の意味を考える報道が平年以上に少なかった

それに〝東日本大震災と復興策〟〝原発事故収束〟〝放射能災害と被害者救済〟〝国民多数の生活実態を無視した3党合意による消費税率引き上げ法の成立〟など、忘れてはならないことが多い。

それらの大きな問題から目をそらすようなマスコミ報道に加えて、〝韓国大統領の竹島(韓国名:独島)への上陸〟〝香港活動家の尖閣上陸〟〝それに対抗する日本の痴呆議員の尖閣上陸〟などの動きが相次いだ。

尖閣問題は誰かが自分の政治目的のために仕掛けて、狙い通り日中の世論に火がついた、そんな印象が消えない(東京都ではこの間、放射線量の正確なデータも公表されないまま被災地からの瓦礫が運び込まれている)。

いずれにせよ日韓、日中の一般世論が刺激されてしまい、多くの人が「終戦」の意味をじっくり考える機会が失われた。

NHKが放送した「戦場の軍法会議~処刑された日本兵~」(8月14日放送・NHKスペシャル)「終戦 なぜ早く決められなかったのか」(8月15日放送・NHKスペシャル)。それに「沖縄戦心の傷~戦後67年 初の大規模調査~」(8月12日放送・ETV特集)の力作があるのがせめてもの救いである。

これらの番組の要点については、後日、紹介する機会を持ちたい(昨年の夏、NHKは衛星放送を含め、戦争を検証し考える番組を今年の倍、制作し放送している)。

領土問題は中国、韓国、日本の国民の一部がいかに行動しても、また最近目立った行動はないがロシアが何をしようとも、一方的な現実策はなく、短期的な解決はあり得ない。領土問題には相手がいる。己の正しいと信じることを主張することは当然だが、大変でも相手の言い分にも耳を傾ける必要がある。

これを実践するには相当の度量と胆力、覚悟が必要だ。関係国民が過熱した感情を冷静にし、硬直した発想をほぐしながら、関係国(議会、政府)が長期的な視点、広い視野から冷静に取り組むしかない。

8月15日は、日本がようやく敗戦を認めた日だ。過去と現在までの間に何故ここまで来たのか、まず歴史を出来るだけ正確に検証することが必要だ。

1945年8月15日、昭和天皇が「終戦の詔勅」を読み上げた「終戦の放送」(いわゆる玉音放送)は、天皇が日本国民に向かって戦争遂行を止めることを明らかにしたが、世界には日本が降伏すると伝えただけである。

一部を除き、アメリカや多くの連合国は、「終戦の放送」から18日後、日本が正式に降伏文書に調印した9月2日を「第二次大戦(太平洋戦争)終結の日」、「対日戦勝記念日」としている。

日本武道館で例年催されている「全国戦没者追悼式」も、敗戦後すぐに始まったのではない。サンフランシスコ平和条約で日本が主権回復(独立)した後の1952年が初めてである。それも武道館ではなく新宿御苑で、8月15日ではなく5月20日に行われている。

〈終戦をめぐる犠牲者たち〉

「終戦の日」に至るまで、内外各国で多くの人々が犠牲になった。

NHKスペシャルの「終戦」でも指摘しているが、最後の3カ月余りに60万人もの人が犠牲になっている。ナチス・ドイツ降伏後、ソ連も攻撃準備を開始し日本包囲網が狭まる一方の閉塞状況。戦争を早く止め、犠牲者を増やさないで済む機会は幾つもあったはずである。

(ソ連は8月15日など関係なく侵攻を続け、9月2日の降伏文書調印もお構いなく攻撃を続け、一般市民にも大勢の死傷者を出す。挙句の果てにソ連は、日本兵の捕虜をシベリアに連行・抑留し、強制労働に従事させる。いわゆるシベリア抑留で、6万人が死亡したとみられている。あきらかにソ連の国際法違反であるが、未だにロシア側から賠償の案件は出されていない)

広島・長崎への原爆投下直後、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し、旧満州、南樺太、千島列島への侵攻を始める。国際情勢、戦局を冷静に見つめ早期に迅速に終戦の決断をしていれば、北方領土問題などあり得なかった

天皇出席の「御前会議」の内容が明らかにされている。毎日毎日、占領地や海外の戦場だけでなく、国内でも数多くの人々が犠牲になっているのを誰ひとりとして案じる発言がないのに驚くばかりだ。こういう人間が国を戦争へと導いていった。まさに無責任体制の国家だった。

「終戦」となっても、こうした犠牲者への配慮を忘れては意味がない。

「終戦の日」後に始まる占領時代は、日本人にとって旧体制での負の遺産を抱えつつ、新生日本への始まりを告げる転換点となったはずである。日本が軍事官僚主体の非民主的な体制から脱却し、戦後の民主的な憲法制定に至る過程で幾つもの紆余曲折が重ねられた日々である。

何をどこまで達成できて、どこまで過去の負の遺産を引きずっているのか、検証・検討に値する。8月15日から9月2日までは格好の期間である。

終戦放送(玉音放送)は、詔勅朗読が録音されたレコードを放送前に奪おうと、一部軍人が宮中の一部を占拠して失敗するクーデター未遂事件が起きた。放送の後、何人もの軍人が絶望したかのように自殺をしている。

厚木航空場(現・厚木基地)では、現地部隊の司令官が反旗を翻す事件も起きた。都心では、愛宕山籠城事件、松江では数十人の武装青年が県庁などを焼き討ちする松江騒擾事件も起きた。

連合軍総司令官のダグラス・マッカーサーがコーンパイプをくわえた姿で厚木飛行場に降り立ったのは、予定より2日遅れの8月30日、先遣隊の到着は28日。終戦放送の後も国内は決して平常ではなかったのである。

また、終戦放送を知ったり、敗戦・戦闘停止の指令を受けたりした内外の部隊で逆に残虐行為が繰り返される。

45年6月、米軍が上陸した沖縄県の久米島では、日本軍久米島守備隊による「住民虐殺事件」が起きた。

久米島守備隊の司令官は、「終戦の日」の前から、米軍のスパイだなどと勝手に邪推し、住民を殺したり遺体を家ごと焼いたりしていた。さらに8月18日、一家4人を惨殺し、米軍への特攻命令を出して戻ってきた者を命令に従わない、などと処刑している。

終戦の日以前であれいつであれ、こうした残虐行為は犯罪であるが、停戦命令後の殺戮は当時の海軍刑法上でも「私的戦闘」の罪に当たる。

しかし、この司令官は戦後も罪に問われることなく生き延びる。それどころか週刊紙のインタビューに答え、事件が事実であったことを認めたが「正当な業務行為だった」と正当化している(サンデー毎日・1972年4月2日号)。

また、終戦・停戦命令が出た後、捕虜が解放されるどころか、アメリカ人捕虜が1000人以上、処刑されている。

ボルネオ、サンダカン、テナウなどでは軍の処刑命令書が出ていて、大勢のイギリス人、オーストラリア人捕虜が処刑されている。あきらかに国際法違反で、重大な犯罪を犯している。

まさに人権無視の無法地帯が日本各地に発生したのを忘れてはならない。

(小沢一郎氏の元秘書3人に対し、推認の果てに有罪判決を出した裁判官が罷免されずに裁判官を続けているのも、久米島守備隊の司令官の発想と同根の問題でもある、と個人的には考えている)

〈米国は8月14日に日本の降伏を知っていた〉

終戦放送(玉音放送)は、45年8月15日正午から放送された。

原版は現在、港区・愛宕山にあるNHK放送博物館に保管・展示されている。再生は不可能だが、録音は聴くことができる(天皇大権に基づいてポツダム宣言を受諾する勅旨を国民に宣言する文書で昭和天皇が朗読している)。

8月9日の案文起草から8月15日正午の放送までに1週間かかっている。

先に述べたように、戦争を終える「勅旨」作成に関わった関係者たちも、「勅旨」の形、対面にはこだわったものの、国民の命を守るために一刻も早く戦争終結を、という最も大切な発想はなかったようだ。

「敗戦」とか「降伏」という言葉を使わない。漢学者2人が起草したのを加筆や追加、誤字脱字訂正を経て、天皇が合意。

14日深夜録音開始したのを、一部部隊の不穏な動きを潜り抜けてNHKに持ち込み放送となった。

一方で、14日の午後9時、ラジオで国民向けに「15日正午から重大発表あり」と、また15日の朝7時21分「正午は必ずラジオを聴くように」と予告放送される。

放送の出力を10kwから60kwに増力、普段は停電中の各地にも特別送電を実施。満州、朝鮮半島、台湾、中国占領地域、それに南方諸地域向けにも放送した。また、新聞の当日朝刊は放送終了後配達、などの措置が取られた。

(もっともラジオ音声の受信状況が悪かったことや、日本政府が、天皇を国民に知らせず、近寄らせない方針を取っていたこともあって、あの甲高い声が昭和天皇の声だと認識した国民は決して多くはなかったようだ、と言われる)

海外向けのラジオ・トウキョウは、終戦放送の英語訳を国内向けより一足早く15日早朝、アメリカ東海岸時間で14日夕方、「日本は、間もなくポツダム宣言の受諾発表をするので、連合国側は早急にアメリカ大統領に伝えるよう呼びかける」旨の放送を実施。

これを受け、トルーマン米大統領は現地時間の14日午後7時、全米向けに「日本が正式に降伏文書に調印する時に対日戦争勝利宣言を行う。日本の降伏と第二次大戦勝利の公式行事は92日行う」と発表。

トルーマン大統領の発表後、ニューヨークのタイムズ・スクウェアには大勢の人々が集まり、早くも対日戦勝利の祝賀の雰囲気になったのが報道されている。

翌8月15日付のNYタイムズは、天皇の朗読文を全文掲載

NY州の近隣ロードアイランド州は、そのまま814を「太平洋戦勝の日」とか「対日戦勝の日」としている。その後8月の第二月曜日を「対日戦勝記念日」としたが、90年、州議会は「対日戦勝記念日に、広島・長崎の原爆による破壊に満足している、との意味はない」という決議を採択している(被曝の深刻さが理解されてきたことが背景にある)。

アメリカのほか、イギリス、フランス、カナダ、ロシアは92日を「対日戦勝記念日(VJ-Day)」と呼んでいる(旧ソ連は4593日に対日戦勝祝賀会が行われたため、9月3日が対日戦勝記念日となっていた)。

また、中国と台湾も、旧ソ連と同じく93日を「抗日戦争勝利の日」にしている。

〈多くの問題をはらんだ終戦宣言〉

8月15日を「終戦」「独立回復」と解する国・地域もある。

オーストラリアは8月15日の「終戦の放送」後、そのまま15日を対日戦勝記念日としている。

韓国は御存じのように815日を「光復節」(1910年の日韓併合以来の日本統治から解放され、独立を回復した日)としている。北朝鮮は「祖国解放記念日」と呼んでいる。

当時の朝鮮総督府政務総監・遠藤柳作は、独立運動の知日派指導者・呂運亨と会談し、「日本人の安全と財産保全」朝鮮人の政治犯釈放と食糧確保」を条件に、朝鮮建国準備委員会(8月15日発足)に行政権が委譲されることで合意。

呂運亨は16日、ラジオで発表、ソウル市内での集会で報告した。

96日になると、別の政党や朝鮮共産党が参加し、呂運亨率いる「建国準備委員会」が「朝鮮人民共和国」樹立を宣言する。

しかし翌97日、アメリカ軍が上陸。11日に呂運亨ら建国準備委員会を否認し、「軍政」を宣言する。

また、ソ連は824日、現在の北朝鮮の一部に到着していて、朝鮮人民共和国は失敗する(呂運亨は、その後まもなく右翼の青年によって暗殺される。呂運亨は、南北両国で高い評価を受ける数少ない政治家)。

米ソの間で北緯38度線を境に南北分割占領で合意

1948813日、南半分が大韓民国(韓国)として建国宣言(軍政終了)。99日に北半分で金日成らがソ連の支援を受けて朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)建国宣言。

朝鮮半島は南北分割のまま2国が成立。506月には朝鮮戦争勃発し、朝鮮半島は激しい戦場となり、人々は大変な辛酸を舐めることになる。

同じく日本占領下にあった台湾はポツダム宣言で「中華民国」への帰属が決められる。99日、中華民国政府は南京で日本軍降伏を受諾

1025日、台北で「台湾における降伏受諾の式典」が開かれた。台湾総督府から、中国戦区総司令に権限委譲が行われ、中華民国が台湾を接収する(52年、サンフランシスコ平和条約に基づき、日本は正式に台湾の権益を放棄する)。

台湾の人たちも大陸から追われるように移住してきた国民党政府の過酷な弾圧を受け、しばらくは政治的自由を奪われたままの時代が続く。

激しい国境内戦の末、中華民国・国民党政権は台湾に逃れ、本土支配を確実にした中国共産党が、49101日、一党独裁の中華人民共和国建国を宣言する。毛沢東率いる中国共産党軍は49年にウイグルに侵攻し、占領。ついで50年にはチベットに侵攻し占領下に置き現在に至る。

この後も毛沢東の大躍進政策の失敗、文化大革命の大混乱などで中国では数千万の人々が餓死したり殺されたりした、と言われる。いずれも正確な資料はない。

その中国はサンフランシスコ条約に参加せず、72929日、北京での“日中共同声明”の調印式が行われ、田中角栄総理大臣、周恩来国務院総理が署名して国交を結ぶ。日本は、それまで国交のあった中華民国(台湾)に断交を通告。

このように簡単に振り返っただけでも45年8月15日の「終戦の日」はおおくの問題をはらんだままの“終戦宣言”の日だった。降伏文書調印、占領時代に新生日本の骨格づくりの争いが展開される。

8月15日の焦点となっている「全国戦没者追悼式」と靖国神社を巡る経緯、9月2日の降伏文書調印、その後の東京裁判・極東軍事裁判などについては、今回でなく、後日、別の機会に述べてみたい。

 

【NLオリジナル】