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【原発PR看板】署名を無視し撤去決めた双葉町。標語を考案した大沼さん「負の遺産として現場保存を」(鈴木博喜)

福島県双葉町に設置された原発PR標語の看板が、撤去の危機に直面している。「原子力/明るい未来の/エネルギー」。小学生の頃に標語を考案した大沼勇治さん(39)=茨城県古河市=は「負の遺産」として現場保存を求めているが、双葉町は「倒壊の危険」を理由に年内撤去の姿勢を崩していない。「復興」の邪魔になるのか、なりふり構わず撤去へ邁進する町役場。大沼さんは法的手段も視野に入れつつ、「原発事故を知らない世代に伝える責任がある」と今後も現場保存を求めていく。

 

【何が何でも「年内撤去」】

 

 双葉町幹部は「苦しい言い訳に終始した」という。

 

 6月22日。双葉町役場で、大沼勇治さん、せりなさん夫妻は1時間にわたって伊澤史朗町長らと話し合った。全国から寄せられた看板撤去反対の署名400筆を追加提出し改めて看板の現場保存を求めたが、伊澤町長は「年内撤去」の姿勢を崩さなかった。「何を言っても駄目でした」。大沼さん夫妻は怒りを押し殺すように振り返った。

 

 「撤去ありき」の町側は、「錆び付いていて倒壊の危険がある」ことを理由に挙げた。しかし、建築士など専門家の判断を仰ぐことはしていない。職員が錆び付いている個所の写真を撮影してきた程度。町幹部は「業者への問い合わせでは、修繕費用よりも撤去費用の方が安いとの見積もりだった」とくり返したが、これも口頭でのやり取りのみで、具体的な見積書が提出されているわけではない。「とにかく『撤去』一辺倒。私費で買い取ると言っても町の資産であることを理由に拒否。どこかの博物館が展示を申し出たとしても断るとのことでした」。

 

 町側はとうとう、「民主主義」を振りかざした。「選挙で選ばれた町議が誰一人として撤去に反対していない。予算案は議会で承認された、これが民主主義だ」。妻のせりなさん(39)はこう反論したという。「では、私たちの『民主主義』はどうなるんですか?」。町長らの回答は無かった。「双葉町民だけから現場保存を求める署名を集めたとしても、考えは変わらない」という徹底ぶり。伊澤町長は「町議会では撤去に反対意見は無かった。むしろ『あんな看板は撤去してしまえ』という意見もあった」と語った。発言した町議の名前を大沼さんが尋ねたが、町長は回答を拒んだという。

 

 「あの看板が、これほどまでに価値があるとは思わなかった」、「当初は撤去後に保管する予定すら無かったが、署名活動のおかげで倉庫に保管することになった」とも話した町幹部。「町民から、大沼さんの活動に対するクレームの電話が何件か入った」とも口にしたという。

 

 「『復興に前向きな町』にとって、原発に依存していた、推進していたという歴史は不都合なのでしょう」。せりなさんは悔しそうに語る。双葉町秘書広報課に電話取材をすると、やはり「錆び付いていて危ないため撤去することにした。きちんと保管をするが、今後の展示場所や方法などは決まっていない」と答えた。

 

 

【安倍政権の意向が影響?】

 

 撤去決定の動きは速かった。

 

 双葉町が3月議会に看板の撤去費用約410万円を含む予算案を提出したことを知ると、大沼さんは一週間後には町や町議会に撤去反対を申し入れた。同時に署名活動も開始。仮設住宅で暮らす町民からも署名を集めたり、大手メディアの取材を積極的に受けたりして世論を喚起した。60人ほどの双葉町民が署名に応じてくれたという。

 

 「直接、会って話がしたい」。6月に入り、伊澤町長から突然、電話が入った。22日に面会することが決まったのが12日。しかし、翌13日には再び携帯電話が鳴り、「現場保存は難しい」旨が伝えられる。そして17日、町長は町議会で看板の年内撤去を一方的に表明した。撤去にこだわる伊澤町長の不意打ちだった。新聞記者からの電話で撤去表明を知った大沼さんは、驚くとともに不信感を募らせたという。

 

 「面くらいました。会う日時まで決まっていたのに…。署名を提出してから10日も経っていないのにですよ」

 

 今月8日、署名を提出した大沼さんは、町長室で「どうしても、あの場所に保存しなければ駄目か」、「復興記念公園の展示室で展示することを考えているが、実現できるかどうかは分からない」などと伊澤町長から打診されていた。
しかし、展示には消極的。「次の町長選挙に出るかどうか、当選するかどうかも分からない」とも語ったという。「保管はするが先のことは分からない、ということなのか。看板をずっと倉庫に眠らせるストーリーが見え見え」と大沼さん。「復興を推進したい政府・自民党や安倍晋三首相の意向が大きく影響したのではないか」と町長に質したが、否定したという。

 

 

【全国から激励の手紙】

 双葉北小学校の6年生だった1988年3月、宿題が出された。「『原子力』という言葉から始まる原発推進の標語を考えてくるように」。宿題だから提出しないと先生に怒られる。知恵を絞った大沼少年の脳裏に浮かんだのが、「明るい未来」だったという。

 

 「原発のおかげで、双葉町がいわき市のように発展するイメージがあったんですよね。この3年前にはつくば万博が開催されて、『21世紀』や『リニアモーターカー』の印象もありました」

 

 日頃から、出稼ぎの原発労働者が川魚釣りやサッカーなどで遊んでくれた。チェルノブイリ原発事故が起きた際は、母親が「もし福島原発で事故が起きたら、東京まで広範囲で人が住めなくなる」と話したが、「原発=原爆」のイメージを抱いた一方で、原発は輝かしい未来をもたらす存在でもあった。

 

 少年の考案した標語は281点のなかから優秀賞に選ばれ、岩本忠夫町長(当時)から表彰された。6号線沿いに自分の標語が掲げられると「誇らしかった」と振り返る。原発の街のシンボルとなった標語は、イベントで使われるテントにも書かれた。標語の書かれたテントで、岩本町長は初日の出を拝んだこともあった。長年にわたって小学生の原発PR標語を利用し尽くした町。今度は展示方法も決まらないまま、看板を倉庫に眠らせようとしている。

 

 「伊澤町長は、遅くても撤去をする一週間前には連絡すると約束した。それまでに専門家に現場を見てもらい、倒壊の危険性が低いことを証明したい。看板の歴史的な価値を町に理解してもらうために、学者にも見ていただきたい」と大沼さん。「原発の安全性を信じていた時代もあったんだと伝えるには、写真では説得力がないんです。歴史の1ページとして形として残したいんです。戦争の悲惨さが語り継がれるように。私の人生において、あの看板は外せないですから」。

 

 大沼さんの元には、署名とともに全国から多くの激励の手紙が寄せられた。「大切な宝物です」と目を細める大沼さん夫妻は、現場保存をあきらめていない。



(文・写真:鈴木博喜)