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憲政の神様・尾崎咢堂 〜議会政治の父、変遷の父、日米交流の父 〜

 「又野村という山村は、道志の山裾にかこまれた極めて辺鄙な所だ」と、<憲政の父>またの名を<憲政の神様>と言われる尾崎咢堂は、自伝で生まれ故郷の津久井を語っています。

 

 尾崎咢堂は安政5年11月20日(1858年12月24日)、相模国津久井県又野村(現・神奈川県相模原市緑区又野)に生まれ、幼名を彦太郎と言い11才まで津久井で育ちました。

たまたまその津久井の山に住む筆者は、山を下り3キロほど離れた<尾崎咢堂記念館>を訪れました。 憲法記念日のことでした。

 

*ハチャメチャ咢堂

 「思い立ったが吉日」とは、将に尾崎咢堂の生き方を象徴している。 人の評判など意に介さず、ひたすら走った咢堂人生を駆け足で辿ってみる。

 

士族の長男に生まれた彦太郎(後の行雄、雅号を咢堂)は、病弱で小さい子供だった。

 

明治新政府の弾正台(行政監察・司法警察)の役人だった父彦四郎行正の転任で、東京の駿河台や番町、群馬、三重と転々とする。 その先々にあった塾で漢学、国学、英語を学んだ。 その頃、彦太郎少年は、「民撰議院設立建白書」(板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平、と他4名による)が太政官の左院に提出されたことを知る。 「官僚専制の弊害を告発し、民撰議会を設立して天下の公議を拡張する必要あり」としたためた要望書だった。 この建白書が彦太郎少年を突き動かしたのだ。

 

 1874年、慶応義塾に入学。 1875年のクリスマス、キリスト教徒になる。 一年半で慶応義塾を退学。 立派な染物屋になろうと決心したが、一年足らずでこれも止める。 英語の翻訳をし、共勧義塾(本郷湯島)で英国史を講義したが大不評で首になる。

 

 1878年、最初の結婚をし、1879年には新妻同伴で新潟新聞の主筆として新潟へ赴く。

 

1881年、157㎝45㎏の虚弱体質で徴兵検査に落ちると思っていたのに、受かってしまう。 そこで友人たちに借金をし300円(今の6,000,000円相当)の代人料を払って、徴兵から逃げた。

 

1882年4月に立憲改進党(大隈重信が党首)が結成され、立憲君主制と議会政治の実現を目標とした。 1881年に結成された急進的な自由主義を党是とする自由党(板垣退助が総理)に対抗するもので、報知新聞が機関誌となり尾崎は論説記者となった。

 

1882年6月には、集会条例改正で政党活動を拘束する規定が設けられ、政党受難の時代に突入。 政府は、自由民権運動の流れを汲む自由党や改進党などを藩閥政府に反対する民党(民権派各党の総称)と決めつけ、これらの在野党を絶滅し、その政党員を謀反人扱いにし、民権論者を迫害した。

 

1883年4月には新聞紙条例が改正され、さらに同年6月に出版条例が改正され、厳しい言論圧迫がなされた。 反政府の政党紙を治安妨害の名目で発行を停止した。

 

1885年3月、日本橋区選出の最年少の東京府会議員となった尾崎行雄は、あるべき国会議員像を次ぎのように挙げた。 (1)内外事情、行政に詳しい、(2)道徳を守る、(3)公共心を持つ、(4)権力に屈しない、(5)名誉欲、利権欲に囚われない、(6)自説を守る、(7)自分の意見を持つ、(8)物事は周到に考える、(9)穏当着実に、(10)演説の才能がある、との10ヵ条である。

 

*「道理が引っ込む時勢を愕く」と咢堂:

 

1887年10月、後藤象二郎と組んで大同団結運動を起こし、租税徴収軽減・言論集会自由・外交失策挽回を政府に求める三大建白運動を展開した。 後藤らと丁亥(ていがい)倶楽部を結成して、民権派は藩閥政治に反対しクーデターまで考えたが、1887年末、保安条例の罰則に触れて東京退去、すなわち、「保安条例第4条に依り、来る31日午後3時を限り、3年間皇城を距る3里(12キロ)以外の地へ退去すべし」とのお咎めを受けた。

 

 ビックリした尾崎は、雅号を愕きの愕堂(のち咢堂)にした。 ちなみに、この民権派弾圧の保安条例では、中江兆民ら要注意人物となった民権家たち570名が追放された。これを契機に尾崎咢堂は1888年1月、横浜から初の欧米視察に出る。

 

1889年2月に大日本帝国憲法が発布され、3月に大恩赦令通知が咢堂にも届き、東京退去が解かれた。

 

1890年7月我が国で最初の衆議院議員総選挙が行われたが、選挙資格は国税15円(30万円)以上を納める25歳以上の男子に限られていた。咢堂は選挙に出るにあたって津久井には手蔓がないし、父が隠居していた三重県第5区(2人区)から立候補した。 そして、有効投票数1,919票ある中で1,772票もの多数票を獲得して当選した。

 

1898年6月に大隈重信と板垣退助の「隈板内閣」で文部大臣、1914年4月の第2次大隈内閣で、司法大臣を歴任した。大隈内閣時代、当初反対であった対華「21カ条の要求」(中国における権益拡大)に閣僚として賛成している。 咢堂はこの行為を悔やみ、以後、内閣に入らない決意をして一介の衆議院議員で押し通した。

 

*桜の木2000本をワシントンへ

 咢堂は1903年から1912年まで東京市長(現在の都知事)に就任した。 東京市長在任中に、東京市は東京鉄道を買収し、東京市電気局を設置した。 第一夫人の逝去を受けて日英混血のテオドラと再婚したが、混血児との結婚で咢堂は様々なあらぬ噂を立てられた。

 

咢堂東京市長は、日露戦争の講和に助力してもらったアメリカへの謝礼を考えていた。1912年3月27日、咢堂東京市長は2,000本の桜を寄贈したが、虫害で全滅した。

 

 その後、ソメイヨシノ1,800本、カンザン350本、イチヨウ160、タキニオイ140本、シラユキ130本、フゲンゾウ120本、アリアケ100本、ジョウニオイ80本、フクロクジュ50本、スルガダイニオイ50、ギョイコウ20本、ミクルマガエシ20本など計12種類、3020本の桜の苗木が阿波丸に乗せられ横浜港を出航、アメリカのシアトルまで輸送された後、鉄道を経由して3月26日にワシントンD.C.に到着した。

 

 1915年、アメリカから日本へお返しに<はなみずき(アメリカヤマボウシ)>が送られてきた。 1935年には最初の桜まつりが、ワシントン・ポトマック河畔で開催されている。

 

外交ではタカ派だった咢堂だが、ヨーロッパ視察で第一次戦争後の悲惨さを目のあたりにし、態度を180度転回させ軍縮論者となった。

 

咢堂は、普通選挙の早期施行にも消極的だったが、大正デモクラシーに共鳴して普通選挙運動に参加した。 さらに、婦人参政権運動を支持し、新婦人協会による治安警察法改正運動なども支援した。 また軍縮推進運動、治安維持法反対運動など一貫して軍国化に抵抗し、議会制民主主義を擁護したため、政界では孤立していく。

 

1943年、総選挙の応援演説で翼賛選挙批判を行った時に引用した川柳、「売家と唐様で書く三代目」が、3代目に当たる昭和天皇を馬鹿にしたとみなされ不敬罪で起訴された。 一審で懲役8か月執行猶予2年の判決が下された。

 

*父と呼ばれる咢堂

第二次世界大戦の敗戦後、咢堂は新憲法案を構想したりしたが、1946年には勲一等旭日大綬章を返還して政界引退と決めていた。 が、三重県の支持者が勝手に推挙し、1946年、1947年の総選挙で当選した。 1953年の総選挙で落選し完全引退した時には94才で、

 

日本史上最高齢衆議院議員記録となる。 日本初の衆議院議員総選挙以来、尾崎は連続25回、63年間にわたる前人未踏の議員在任記録を作った。 尾崎咢堂が、<憲政の父>(別名、神様)とか、<議会政治の父>と呼ばれる由縁である。 さらに咢堂は、<変遷の父>とも呼ばれている。

 

それは、立憲改進党→進歩党→憲政党→憲政本党→政友会→猶興会→政友会→中正会→憲政会→革新倶楽部→立憲国民党→政友会→無所属と、政党を転々としたからである。 「日本の政党は名ばかりの政党で、その実は軍隊組織の私党であるから、つまらぬ問題まで党議で拘束して、良心の自由を与へない。主義あり意見あり、特に良心ある者は、容易に政党に入る事、否、居る事が出来ない。」(「政戦余業」大阪毎日新聞、1914年)と、咢堂は語っている。

 

<日米交流の父>とも呼ばれるのは、ワシントンに桜を送ったからだ。<世界平和の父>という渾名は「世界連邦建設に関する決議案」を1945年12月11日の第89臨時議会に提出したことに由来する。 咢堂の決議案は、1919年設立の国際連盟をさらに前進させた世界平和構想だった。

 

1954年10月6日、直腸がんと老衰のため新宿の慶応病院で死去、享年95才。

 

2015年5月3日の憲法記念日ほど、めでたくない祝日はありませんでした。 現政府は護憲ではなく改憲を目指しています。

 

天国の咢堂父さん、何か、言いたいことありませんか?

不肖な子供たちですが、105円の咢堂饅頭を食べながらお父さんの生き方を学び考えてみたいと思ってます。

 

山に囲まれ道志川の傍にある尾崎咢堂記念館を紹介します。

 

 咢堂の写真や肖像画、遺品のほかに幅広い活動の足跡を物語る資料が保存、展示されています。電話番号は042-784-0660、月曜日休館(休日開館)、午前9時~午後4時半まで

住所は相模原市緑区又野691、橋本駅からバス「三ケ木行き」で「奈良井」下車徒歩15分