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“パリを破壊の瀬戸際から守った”映画「ディプロマティエ(外交)」(日本語版「パリよ、永遠に」)公開

 世界から多くの観光客が訪れるパリ旧市内は第二次大戦中ドイツ軍占領下でありながら戦争破壊を免れ、今セーヌ川を挟む一帯がユネスコの世界遺産に指定されている。

 大戦末期、中立国スウェーデンの外交官(総領事)ノルドリング(Raoul Nordling)の説得で、パリ占領ドイツ軍の司令官フォン・コルティッツ(Dietrich von Choltitz)が最終的に良心に従い、ヒトラーのパリ破壊命令を無視したからだ。

 

 映画「パリよ、永遠に(日本語版:2012年作品)」、[Diplomacy(英語版),Diplomatie(仏語・独語版)]は、最終局面でパリを破壊から防いだ主役二人の交渉、やりとりに焦点を当て描いたもの。

 

 昨年秋日本でも公開された「シャトーブリアンからの手紙」と同じく独仏両国を祖国とするシュレンドルフ監督による。

 

「(武力では無く)言葉を尽くした外交の力」、「破壊の後では和解は困難になる」、「パリが破壊から守られたからこそ、その後の仏独和解とヨーロッパの再生を可能にした」….

シュレンドルフの信念が見る者に迫る力作で、今月7日から日本で公開される。

 

 映画の筋は2011年フランスで大ヒットした劇作家シリル・ジュリーの演劇「ディプロマシティエ(外交)」を元に、主役二人の交渉をホテル・ムーリスの司令官の部屋での一夜の展開に凝縮している。

 

 映画では肺気腫を患うコルティッツが時折発作に襲われる場面が絶妙に配され、二人の会話の行き詰まりを防ぐ演出が効果的だ。

 事実は一夜でのやり取りではなかったが、主役の俳優たちも舞台と同じで、息のあった絶妙の演技で観客を引き付ける。

 

 またコルティッツが肺気腫を患っていたのは事実だが、年齢は50歳、映画程に老けてはいない。

 ノルドリングも映画のような細みの人物では無く、実際の写真では、かなり丸顔、太めの体形をしている。

 

 コルティッツが占領軍司令官に任命された後、実際にパリに来るのは44年8月9日。ノルドリングはコルティッツ着任後間もなくパリ在住外交団代表としてコルティッツとの交渉を始める。

 両者は捕虜となっていたレジスタンスの闘士らの解放を実現させ、また8月20日から25日のドイツ軍降伏前日の24日までかなりの“停戦”も実現させている。

 レジスタンスが奪還したパリ警視庁庁舎への爆撃を回避、一方でパリ駐在ドイツ軍兵士へのレジスタンスによる襲撃を中止するなどしている。

 

 ヒトラーは、かつては建物や橋を含んだパリの景観を称賛し、ベルリンも同じような都市景観を、と構想していた。しかしベルリンが空爆で破壊されると”パリだけを無傷には置かない“と、コルティッツに対しパリ破壊の命令を出す。

 

 コルティッツは代々祖先がプロイセン軍人の家に生まれる。プロイセン軍の伝統では住民虐殺や街の爆撃など殺戮・破壊行為は戦争犯罪とされてきた。

一方で国の指導者に忠実に仕える軍人としての義務感、祖国や家族への愛が強い。

 ヒトラーが既に半ば狂人状態であると判っていながらも、命令に従う軍人を脱げ切れない。

 

 この二つの価値観の中でコルティッツは揺れ動き、はじめは敗戦必至の状況でパリを破壊しても何の意味も無いのに命令を受け入れようとする。

事実、エッフェル塔、凱旋門、シャンゼリゼ通り、アレクサンデル3世橋、コンコルド広場、ルーブル美術館…、と市内各地に爆薬を仕掛けた。

 

 しかし彼もパリの美しい景観を自分の手で破壊するだけの決断が出来ない。

ノルドリングはコルティッツの人間性をそれまでの交渉を経て知っており、“コルティッツにヒトラーの命令を無視させてパリを救おう”と最後の賭けにでる。

外交官と軍人の発想の相異、時には攻め、引く時には引き、緊張感の中にも互いが理解し合いが進んでいく。

 

 その中でコルティッツを逡巡させていたのが、「軍人や兵士が命令違反をすれば家族全体が集団懲罰を受ける」というヒトラーが出した悪名高い“家族連帯責任懲罰法”(Sippenhaft)だった。

 44年7月、多くの軍人たちが関わるヒトラー暗殺未遂事件が起き、ヒトラーが疑心暗鬼に駆られて出した悪法だった。

(関係者の家族・親族も処刑する、この種の悪法はスターリン体制下のソ連などであり、今も北朝鮮が同様の罰を課していると言われる)

 

 ノルドリングはユダヤ人の妻をはじめ多くの人間のスイス逃亡を秘密裏に手助けをした実績を語り、コルティッツの家族の安全も確約する。

 またパリの破壊者となり後世に名を残すか、パリを救った人物として評価されるか、と選択を迫る。

 

 既に8月23日ヒトラーはパリ破壊を実行するよう命令したいたが、コルティッツは無視し破壊作戦中止を命令する。

 

 結局、ドゴール将軍やレジスタンス部隊がパリに近づき、アメリカ軍も迫っており、コルティッツは殆ど戦闘をすることなく降伏し、パリは守られる。

 また西部方面のドイツ軍も相次いで崩壊し、コルティッツの家族も無事に生き延びる。

 

 映画は冒頭ベートーヴェンの第7番2楽章の重い響きで破壊されたワルシャワの市街地の白黒映像が流れる。

 最後の場面はホテル・ムーリスの屋上からの朝のパリの街並みが映し出され、ジョセフィン・ベーカーの“私には二つの愛するものがある”(J’ai deux amours)との歌声で終わる。

 

 パリの美しい景観が救われたのが如何に奇跡のようであり幸運だったか、改めて思わせる演出だ。

 

「(武力ではなく)言葉を駆使した外交の力」、「破壊の後では和解は困難になる」、「パリが守られたからこそ、戦後の独仏協調とヨーロッパの再生も可能にした」…。

 

 同時にこの映画でシュレンドルフは、取り分け“国”への義務を要求される軍人コルティッツを通し、「“国”という枠を超えることの重要性」も語っている。

 

 パリが守られた経緯は、ドゴール将軍のフランス軍とレジスタンスによるパリ解放を描いた66年の米仏共同制作映画「パリは燃えているか? Is Paris Burning?(英語)、Paris brule-t-il?(仏語) 、Brennt Paris? (独語)」でも判る。

 

 コルティッツは戦後戦犯としてイギリスの収容所に収監されるが47年釈放される。50年回想録「兵士の中の兵士」を出版。フランス政府から最下位ながらレジョン・ド・ヌールを授与されたのは、最終的にパリを破壊から救った功績をフランス政府が讃えたためだ。

 66年バーデン・バーデンで死去。葬儀にはバーデン・バーデン駐留のフランス軍指揮官も参列している。

 

 ノルドリングは51年総領事を退任し最高位のレジョン・ド・ヌールを授与され、58年にはパリ名誉市民として金のメダルを贈られる。61年パリで死去。

 ノルドリングとコルティッツは戦後パリで再開している。

 ノルドリングの回想録「パリを救う。スウェーデン総領事の回想(1905年~44年)」は死後40年も経た2002年に出版されている。

 

(大貫康雄)

画像:映画『パリよ、永遠に』公式サイトより