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耳で味わう伝統芸能のススメ 〜横浜能楽堂「暗闇で聴く古典芸能」〜

 子供のころ、祖父母の家に泊まってうなされたことがある。壁に掛けられていたお釈迦様の絵が、灯りを消すと暗闇にぼんやりと浮かび上がり、怖くてたまらなかったのだ。余りに怯えるので、絵はその晩のうちに取り外された。今思うと、畏れ多いというか、申し訳ないというか。
 
 暗闇の怖さとは、灯りの下で見えていたものが見えなくなり、見えなかったものが見え始めるところにある。しかし、24時間、煌煌と明かりが点く現代では、こうした暗闇を体験する機会は多くない。劇場で、携帯電話の電源を切り、暗闇で椅子に身を沈め、これから始まる「異世界」に心躍らせる時間は、例外的なひとときだ。
 
 とはいえ劇場だって、暗闇状態が何分も続くわけではない。ほどなく明かりが舞台を照らし出すし、暗い中での舞台転換では、いちいち客電が点く公演もある。
 
 とくに歌舞伎や能や文楽といった伝統芸能の劇場では、暗闇自体、珍しい。作品にもよるけれど、舞台上は影ができないほど明るく照らされ、上演中もたいてい、客席の灯りが点いている。観客にも演じ手にも、相手が見える状態だ。
 
 しかし、この明るさが時として、マナーの悪い観客を生む。
 歌舞伎座では、オペラグラス片手に役者の顔を熱心に観る観客が、清元や長唄が流れ出すと、休憩タイムよろしく隣りの人と雑談し始めることもしばしば。
 太夫と三味線と人形遣いの同格が謳われ、太夫が全体を束ねる文楽ですら、語りが始まっても、人形が出ていないからと、周囲への気兼ねなく荷物をがさつかせる観客は時々見かける。
 せっかく、古風な音や言葉に触れる機会なのに勿体ない。かしこまって聴けとは言わないまでも、ここはあなたの家のお茶の間ではないのですよ、くらいは言いたくなる。
 
 マナーの悪い客はいつの時代にもいるだろうけれど、彼らを見ていると、照明が点いているために、自分の日常を劇場に持ち込んでしまっている感じがしてならない。その日常は、目に見えるものを中心に回っている。様々な情報が目から入って来る現代では、見えないものへの意識は薄れがちだ。
 

 そんな「視覚偏重」に、一石を投じる公演があった。
横浜能楽堂の『暗闇で聴く古典芸能』だ。
 各地でライトダウンが開催される夏至の日に、照明を落とした暗闇の能楽堂で、能・組踊・文楽の世界を楽しむというので、いそいそと足を運んだ。
 
【クレジット】 プレトークのもよう。左から、司会の葛西聖司、近藤乾之助(能)、宮城能鳳(組踊)、豊竹嶋大夫(文楽)  撮影:神田佳明 提供:横浜能楽堂 プレトークのもよう。左から、司会の葛西聖司、近藤乾之助(能)、宮城能鳳(組踊)、豊竹嶋大夫(文楽)撮影:神田佳明 提供:横浜能楽堂

 開演は18時。出演者らのプレトーク後、日没の19時に合わせて、場内の照明が落とされ、舞台上も客席も真っ暗に。
 実際に照明が落ちた時には、ちょっとしたスリルを覚えた。本当に見えないのだ。演者達にとっても、日頃の舞台とは随分、勝手が違うはず。
 とはいえ、目が慣れて来ると、前列の客の、白色系の服などはぼんやり識別できるようになってきた。
 
 最初に上演されたのは、シテ・近藤乾之助、ワキ・當山孝道らによる素謡『西行桜』。西行が花見をしていると、やがて夜になり、桜の精が現れる。観客は、昼の桜と夜桜の違いも、西行と桜の精のやり取りも、耳から想像するのだ。
 
 誤算だったのは、暗闇では集中力が増すかと思いきや、そうでもなかったこと。真の闇ではないため、微かに見える前方の観客の動きが気になり、さらには明かりを落とした照明器具が発する音や他の客の咳などにも惑わされ、却って集中できない。舞台上にいるシテ(桜の精)とワキ(西行)の関係が見えないまま、ランダムに入って来る音や色の情報に、右往左往(恐らく演じ手側にも、多少の混乱があった)。たとえば舞台に明かりが一つだけ灯っていたりすれば、それを目安に集中できたことだろう。
 ここで思い出したのは、子供時代の現・市川海老蔵への、父・市川團十郎の指導。息子が注意散漫にならないよう、教える父は握りこぶしを前に出し、それを見ながら長台詞を言わせていた。暗闇にいる観客はいわば、あの握りこぶしが奪われた状態なのだ。
 途中で目を閉じてみると、だいぶ集中できるようになった。
 
 続いて、森田流笛方の松田弘之による一管『津島』。能管が響き渡る。こちらは笛のみということもあって、集中はさほど難しくなかった。どこか古風で自由な音色に乗って、ひととき昔にタイムスリップした心地に。
 
 独特の“暗闇”状態に観客が慣れてきたところで、宮城能鳳と西江喜春による、本土初披露の語り組踊『手水の縁』。
 闇に紛れて忍び会う男女を歌ったもので、忠義の世界を描く事が多い組踊には珍しいとか。歌が始まるや、場内は一気に南国ムードに。組踊に馴染みのない筆者には、言葉はあまり聞き取れなかったが、とくに能鳳の、何か胸を掻きむしられるような切ない声が印象深かった。
 
 そして、能と組踊の違いにも意識が行く。たとえば能では身体も声も抑制するため、エネルギーは内向きで、そこから思いがけないほど力強いものを立ちのぼらせる。これに対し、組踊は、エネルギーの出し方がもう少し外向きな印象だ。慣れない暗闇では、外へと発散される声のほうが、受け取り易いのかもしれない。
 
暗闇で聴く古典芸能 

 休憩を挟んで、豊竹嶋大夫と豊澤富助による素浄瑠璃『卅三間堂棟由来』平太郎住家より木遣り音頭の段(短縮版)。柳の精が人間との間に一子を設けるが、三十三間堂建設のために柳の木は切られることになり、家族は別れることに。そして、柳の木が、夫が木遣り音頭を歌う中、子に曳かれて運ばれる――。
 哀切極まる嶋大夫の語りは、通常の文楽公演では、舞台上手に設置された“床”から観客の感情を煽る。ところが今回は、能楽堂という小宇宙全体に充満するように響いたのが新鮮だった。
 
 終演は20:40ごろ。うっすらと客電がつき、嶋大夫が小さな衝立を取払う。そこには、小さな明かりと共に、見台と床本が置かれていた。
 
 終わってみれば、やはり贅沢な企画だった。通常の公演とは勝手が違うため、主催者も演じ手も苦労したことだろうし、(怖いお釈迦様こそ浮かばなかったものの)闇の中に見え始めたものや雑音・雑念によって気が散ってしまったのも事実。観客として試される心地もしたが、暗闇の作り方に工夫の余地があるとも言えるだろう。それでも、能・組踊・文楽の第一人者が揃い、それぞれの個性の違いを、目でなく耳に伝えてくれた。
 なお、どの作品にも「夜」「闇」といった言葉が登場。花の香りの中に桜の精が現れる『西行桜』の夜と、男女が忍び会う『手水の縁』の闇、柳の精である母が姿を消す『卅三間堂棟由来』の闇とでは、色も音も匂いも味わいも手触りも、まるで違うのが面白い。
 
 能も文楽や組踊も、本来は「観に行く」ではなく「聴きに行く」ものだという。日常と異なる刺激がほしければ、ここは一つ、劇場で、耳をフル回転させてみたい。
 
(高橋彩子)
写真(上):本番とは違い、薄明かりをつけて行われたリハーサルにて。西江喜春(左)と宮城能鳳 撮影:神田佳明 提供:横浜能楽堂