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日比谷公園使用禁止、なぜ東京都は市民の権利を侵害するのか!(大貫 康雄)

日比谷公園と集会の権利

首都圏反原発連合(反原連)が呼びかけた11.11反原発1000000人大占拠」(以降、11.11大占拠と省略)は、冷たい雨の中にもかかわらず相当の数の人たちが参加した。

冬物の上着で歩いたが、思いのほか寒い。私のような意思の弱い者は雨が降り始めると早々に退散したが、多くの人たちはいろいろな衣装やプラカードを作って国会、総理大臣官邸から経済産業省前、東京電力一帯の歩道で日が暮れても活動を続けた。

ヘリコプターが何機か上空を飛んでいた。大規模抗議活動の意義を理解した大手メディア(記者クラブ・メディア)の取材かと思ったら、何とインターネット・メディアや原発の危険性を告発してきた雑誌の取材だった。

主催者が出発点に予定した日比谷公園の使用を東京都が直前に制限(実質的に拒否)し、どうなることかと案じられたが、杞憂に終わった。反原発への人々の強い意志がこの妨害をものともしなかったといえる

抗議デモには毎回、初参加の人たちが相当いるようだ、と反原発首都圏連合は見ている。昨年秋以来、行っている抗議デモ。一度でも参加した人たちの数は年齢層や職業、地域を超えて多様で大変な数に上っているのと推察される。

 

裁判所の言い分vs日弁連の言い分

1)11.11大占拠の出発点と予定された日比谷公園の使用を東京都が許可しなかった問題は10月末、東京都が突然通告したことから始まった。

これに対し主催者側が処分取り消しを求める再度の訴え(再抗告)を東京裁判所に行ったが、裁判所(市村陽典裁判長、齊木利夫裁判官)が東京都の処分を再度認めた、というもの。

法律・裁判用語が一般の我々にわかりにくい問題は別として、日弁連・日本弁護士連合会が山岸憲司会長の名で、日比谷公園の使用制限に反対する、会長声明を出しているので要約する(筆者の責任で若干表現を修正している)。

*東京都は、今年8月中旬以降、日比谷公会堂や日比谷野外音楽堂の使用料を支払わなければ、公園内の道路のみをデモ行進の集合・出発点として使用することは出来ない、という扱いにした(都民や都議会に諮ることもなく都の官僚が勝手に規則を変えている点が問題)。

その上でデモの集合・出発点としての使用を、公園管理上の支障となるため許可しない旨の処分を10月31日出している。

*この不許可処分に対し主催者側が東京地方裁判所に対し、仮の義務付けを求める申し立てをする(日比谷公園ではこれまでも過去2回、大規模抗議デモの集合場所・出発点として使われており、何ら問題が起きていない。それなのに何故今回突然? との問いが起きた)。

*これに対し、東京地方裁判所は、今回のデモは特定の組織化されたデモでなく、広く一般市民に参加を呼び掛けているもので、参加者の人数をあらかじめ相当程度把握することが容易ではない

日比谷公園内の空き面積では参加予定者1万人を収容する能力は無く、混乱を生じる危険がある、などと理由づけをして、行政事件訴訟法第37条の5第1項「本案について理由があると見えるとき」の要件が満たされていない、

などとして東京都の処分を認めている(今さらに取ってつけた理由であることは明らかだ)。

これに対し日弁連会長は声明で、以下のように批判する。

*日比谷公園は典型的な公共用物で、一般公衆による公共用物の使用は当然に自由である。公園は伝統的に、集会やデモ行進の集合・出発点として用いられてきた典型的な公共広場であり、利用は原則として認められるべき。正当な理由なく制約することは、憲法の保障する表現の自由及び集会の自由の不当な制限となる。

一時使用申請は原則、許可しなければならないこと。

申請を拒否できるのは、利用希望が競合する場合のほか、利用させることによって他の基本的権利が侵害され、公共の福祉が損なわれる危険がある場合に限られる(最高裁判決:平成7年3月7日民集49巻3号687頁参照)。

*しかも東日本大震災以降の原子力発電所の再稼働の反対などを訴える抗議活動やデモ行進は、多くの市民が自発的に参加し、しかも整然と平和的に行われており、これまで混乱をきたしていない。それなのに裁判所の決定はこうした重要な視点を看過している。

*また裁判所の論理に従えば、自発的に多くの市民が集まるデモであり、参加者の人数の把握が困難だとして、今後もデモ行進の集合場所・出発点として日比谷公園の使用が認められないことになる恐れがあり、市民の国会への請願行動などへの深刻な障害となりかねない。

この上で日弁連会長は、次のように求めている。

東京都は、平和的な抗議行動やデモ行進が、民主主義の根幹に関わるものであり、最大限の尊重を要するものであることを確認し、日比谷公園について日比谷公会堂などを使用しなくても、デモ行進の集合場所・出発点として使用を広く認めるべき

裁判所は、憲法の保障する表現の自由及び集会の自由の重要性を踏まえ、「デモ行進の集合場所・出発点として使用する場所があるかどうか」、「他の基本的人権が侵害される具体的危険の有無」についての判断を厳格に行い、これらの自由の不当な表現とならないよう配慮すべき。

東京都と東京地裁が(官僚の常とう手段として)民主主義社会に生きる人間の基本的権利を下位・枝葉の論理で制限、ひいては否定するのに対し、これを否定する、至極もっともな声明だ。

 

戦後日本は公園で大規模なデモを行なってきた

2)この決定は東京都東部公園緑地事務所長名で出されているが、誰が如何なる発想と論理で行ったのか、その経緯や真意はわからない

裁判長たちの決定は、はたから見てもお粗末で理由も曖昧、論理的でもない。こんな決定を放っておいて良い訳がない。今後忘れずに追求していく問題だ。

今回の抗告人(デモ主催者)の代理人(弁護士の人たち)は、背景にデモ参加者が暴徒化する「デモ暴徒論」があるのではないか、と指摘する。今なお、デモ暴徒論? とは驚き、あきれるばかりであり、一般市民の人たちを危険視する、大変失礼な発想だが、デモ暴徒論の主張に根拠を与えたとみられる事例を簡単に見てみる。

戦後の歴史を振り返ると、今でこそ誰も抗議集会の場として想定もしなくなった皇居前広場(外苑広場)や日比谷公園で、敗戦直後は幾つか大規模な抗議デモが行われた。

1946年5月19日、食糧難の時代を象徴する大集会が皇居前広場で開かれる。25万人が集まり食料を要求した(飯米獲得人民大会・「食糧メーデー」)。

1947年1月14日、労働組合員ら4万人が皇居前広場に集まり、2月1日のゼネラル・ストライキの実施宣言。

占領期の混乱の最中であり、マッカーサー連合国軍最高司令官が、復興途上の日本で各界の動きが止まると影響が甚大だ、との理由で1月31日にゼネスト中止命令を出して収束(マッカーサーはデモを認めないとは言っていない)。

1950年5月30日から6月1日にかけ、共産党支持者のデモ隊が占領軍と皇居前広場で衝突した「人民広場事件」。

特に52年5月1日、共産党系支持者のデモ隊と警察部隊が皇居前広場で激しく衝突した「血のメーデー事件」では、デモ隊側に死者1人、重軽症者200人、警察側に死者1人、重軽症者750人を出す惨事となった。

この事件以降、デモ行為や集会に厳しく対処する法整備が進められる。破壊活動防護法はこの年に成立する。

また日比谷公園を出発した最大の抗議デモは、「60年安保闘争」として記憶される59年から60年にかけて、国会議員から一般市民、学生まで幅広い層が参加して繰り広げられた日米安保条約反対運動だった。

当時の岸政権が日米安全保障条約を一方的に改定・延長したのに対する広範な国民の抗議活動で、中でも6月15国会に向けて出発したデモ隊は国会議事堂正面で機動隊と衝突。デモ隊参加者は13万人から30万人余りに上ったと言われ、衝突の最中デモに参加していた東大生の樺美智子さんが圧死する悲劇が起きる。

断わっておくが、このような大規模、時に激しい抗議活動は日本だけではない。アメリカ、ヨーロッパの西側民主主義国では60年代、70年代を通して繰り広げられた。中にはいわゆる要人や主要機関を狙ったテロ活動に発展した例も多々ある。

それでも、武器を使うとか、投石するなど暴力活動は極力抑え込んだが表現の自由、集会の自由は基本的な権利として堅持した。警察の過剰警備・弾圧は常に監視され、起きた場合は政治問題にもされてきた。

日本のようにいつの間にか皇居前広場での活動が制限され、デモ行進や集会の場として使えなくなったような例は他の民主主義国家には見られない。

近年のアメリカ、ヨーロッパの抗議デモを見ても、広場や公園の使用は当たり前のこと。今回の日比谷公園のように、管理うんぬんを盾に使用を許可するか否かを判断するのは問題外のことだ。

主体性は市民にあるのであって、市民が責任を持って平和的な抗議デモを実施することが肝心であって、税金で作られた公共の施設を税金で管理を任される東京都の官僚が口を出して勝手に市民の権利を制限すること自体、民主主義社会の市民に対する越権行為である。

 

公園を市民が自由に使うのは当たり前のこと

3)日弁連会長も指摘し危険性を警告しているが、民主主義国ならどこでも公園は市民の表現の自由(権利)、集会の自由(権利)表明の場として自由に使用されている。至極当たり前なのだ。

アメリカでは1789年にいち早く憲法修正第1条として明記している。ドイツ降伏5周年の1949年5月8日に制定されたドイツ基本法(実質的な憲法)では、市民に対して民主主義・自由主義を防衛する義務を課し、表現の自由、結社の自由を最高の価値の一つとして万人に等しく保証している。

ドイツの場合さらに、右翼団体などが他の人たちの平和的な集会やデモ行進を妨害した場合は基本的権利を担う資格がないとして厳しく処罰される(筆者の責任で意訳している)。

もっとも極右団体が基本的権利の侵害を叫ぶようなデモ行進や集会があると、それを上回る数の市民が、民主主義と基本的権利の維持・擁護の重要性を訴えるデモ行進や集会を開いて極右団体を圧倒する例がドイツでは良く見られる。

第二次大戦後の1966年には、世界各国が定めた「市民的及び政治的権利に関する国際規約」でも謳われている。日本国憲法では第21条第1項で明記している。

繰り返すが、今回の日比谷公園使用制限は、この民主主義社会にとって最も大事な権利を東京都の一部局の官僚が勝手に制限する行為で、それを簡単に裁判所が認めるという、基本的権利に対する極めて重大な侵害行為だ。

考えてみると政府・自治体が市民の基本的権利を侵害するような決定と裁判所の追認は結構方々で起きている。それに対して我々日本人は慣れっこになっているのか、危険性を認識できないのか、それとも人権擁護の意識が薄いのか、反応はまだ鈍いと言わざるを得ない。

【NLオリジナル】