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日隅一雄という「主権者」(木野 龍逸)

2012年6月12日、弁護士・日隅一雄さんが亡くなった。49歳という若さだった。14日に荼毘にふされ、17日に郷里の福山で近親者らによる葬儀が執り行われた。福山駅から北へ福塩線で30分ほどいった山間のお寺での葬儀は、読経の合間にウグイスの鳴き声が聞こえる静かなものだった。

葬儀から戻った深夜、TBSで、「バッヂとペンと〜日隅一雄の闘い〜」が放送された。番組は、ガンで余命6か月と診断された後の日隅さんを追いかけ、「主権者は誰か」という日隅さんの問題意識を淡々と描き出していた。葬儀の日に番組が放映されたのは、奇遇としかいいようがない。

近年の日隅さんを知る人たちからはよく、日隅一雄の生き様に勇気を与えられたこと、問題の掘り下げ方に感銘を受けたことなどを聞くことが多い。僕自身、日隅さんの最近の活動から教示を受けることも多々あり、時には議論したことがあった。

一方で、20年前から日隅さんを知る友人として彼を見ると、日隅さんが決して特別な存在ではなかったことと、日々の活動の積み重ねの中から、日隅さん自身がまさに「主権者」となっていったことに思いを致さずにはいられない。

僕が日隅さんと出会ったのは、20年前のシドニーだった。僕たちはシドニーで邦人向けのフリーペーパーを発行していた日豪プレスという会社で編集の仕事をしていた。当時の日隅さんを知る友人達は、今の日隅さんの活動とのギャップを感じている人が多い。

シドニーでの日隅さんは、どこにでもいる普通の若者だった。古い検疫所を探索する幽霊ツアーの取材を嬉々として企画し、週末のバーベキューで酔っ払い、ハーフマラソンにサンタクロースの仮装で参加するという、お調子者の側面が強かった。

1年間のシドニー生活を終えて帰国し、本屋で見かけた「あなたも1年で弁護士になれる」という本のタイトルにひかれて弁護しを目指し、ほんとうに1年半で司法試験に合格したときも、今のような問題意識を持っていたわけではなかった。ただシンプルに、弁護士という仕事を楽しんでいるという印象を、僕は持っていた。

大きな変化が出たのは、日隅さんによれば、自身でブログを立ち上げた2006年頃からだった。それ以前から、NHKの番組改編事件や報道被害への対処など、メディアが内包している問題に積極的に取り組んではいた。今から思うと、こうした活動が下敷きになっていたのだろう。

その後、憲法改正の国民投票法案が話題になったとき、日隅さんは自ら情報を発信する必要があると意識し、ブログを立ち上げた。

自分で情報を発信するためには、情報を収集し、分析する必要がある。これが、日隅さんの問題意識をさらに高めていくことになったと、今年の3月のインタビューで聞いた(インタビューは、週刊金曜日2012年3月9日号に掲載)。

もともとは、最低投票率を定めていないなどの国民投票法案のおかしさ、その奇妙さを報じないマスメディアに対する疑問から始まっていたが、疑問はそれだけにとどまらず、人権擁護、インターネットとメディア、労働問題、裁判員制度や取り調べの可視化、こうした問題の根底にある「情報のあり方」に目を向けていった。

そこから先は、必然の流れだったのかもしれない。重要情報を一元的に握っている官僚による支配、企業による情報独占、そうした流れを許している審議会制度といった問題に強い関心をもって取り組んでいった。「マスコミはなぜマスゴミと呼ばれるのか」を上梓したのは、クロスオーナーシップや、官僚が意図的にメンバーを選出する審議会制度などの、日本のシステムの問題を明らかにするためだった。

こうした活動により、日隅さんは自分で問題の所在を考え、その伝え方、解決策を組み立てていくという作業にのめり込んでいった。つまり日隅さんはこの時から、自らを「主権者」たらしめていったのではないかと思うのだ。その姿は明らかに、それまでの日隅さんとは違って見えた。

主権者に必要な条件のひとつは、自ら考えて行動する姿勢だ。すべてを他人任せにするのでは、民主主義は成り立たない。行動の内容はどんなに小さなことでもいいが、たとえば選挙に参加することは、極めて重要な行動であろう。

そして個人が行動を起こすための材料として不可欠なのが、情報である。いまの日本は、国や企業が情報を握り、「おれたちが判断するから、おまえたちはそれに従っていればいい」という状況になっている。福島第一原発で大事故を起こし、多額の税金を投入されている東電が、「社内文書」であることを理由にテレビ会議映像の公開を拒否したり、事故発生直後に数多くのプラントデータを隠蔽したりしたのは、情報を判断できるのは自分たちだけだという奢りの表れだったように思う。

しかし我々の生活に影響を与える可能性のある情報は、常に開示されねばならない。その情報をもとに最終的に判断するのは、結局は自分たちでしかないと、ぼくは思っている。自分がどう行動すべきかという情報を国や企業に握られ、彼らの考えに沿って行動しなければならないというのでは、国民は国家の隷属物でしかない。それはごめんこうむりたい。事故以前にも事故後にも、そういえば、日隅さんとそんな話もしたことがあるなあと、断片的な記憶が浮かび上がってくる。

日隅さんが亡くなった後、6月16日に、本来は日隅さんと一緒に対談するはずだった福島市の岩瀬書店で、ひとりで原発関係の話をした。このときにひとつだけ、言おうと決めていたことがあった。

「日隅さんは亡くなったが、ここにいるみなさんや、市民の誰もが、次の日隅さんになれる可能性を持っています」。

もちろん、個人的にはお調子者の印象が強いキャラクターが人を惹き付けた部分もあり、日隅さんそのものになれるわけではない。しかし、ここ10年の日隅さんの変化を見ると、誰もが「リトル日隅」になることが可能なのだと思ったのだ。

もっといえば、自らを主権者と規定し、そのために必要な条件を国に対して求めていくという日隅さんの考え方そのものは、欧米では珍しいものではないというか、むしろあたりまえの主張であろう。特別なことをしているわけではないのだから、日本でも、誰もが少し意識を持つだけで、「リトル日隅」になることもできるのではないだろうか。

日隅さんが亡くなったからといって、その遺志を継ぐということは、僕は考えていない。しかし日隅さんが指摘し続けたことは(なにしろここ10年ほど、呑みながらしょっちゅう、そんな話をしていたから)僕の中に埋め込まれ、時折、顔を出す。遺志は継がないが、日隅さんが取り組んできたことを途絶えさせないため、少しずつ、僕も自分を変えていく必要があると思っている。それが、日本の将来を変えるための血肉になれば、日隅さんも喜ぶかもしれない。

そして、日隅さんのような「主権者」が増えれば、日本が少しは変わるかもしれない。